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冨永昌敬監督
『アトムの足音が聞こえる』

何食わぬ天然面で

文=

updated 06.01.2011

一度でも映画を作ろうとしたことのある人間ならば、その作品の最低限のクオリティを確保するものが「音」であることにすぐ気づくだろう。デジタル機材によって画質の良い映像を撮影できたとしても、聞こえてくる音がショボければ、素人くささをぬぐい去る事はできない。フェイク・ドキュメンタリーのようなスタイルが低予算映画で重宝されるのは、「音のショボさもまたリアリティ担保のための要素なのである(なぜならこれはドキュメンタリーなのだから!)」という言い訳がたち、その面でも安上がりに仕上げられるからということもある。一方で、その真逆のところにあるのがアニメーション作品ということになるだろう。当たり前のことだが、すべての「音」を人の手で付けなければ、見えるものも見えてこなくなる。作品世界に応じてリアルさの次元を設定し、動くとは言えそれでもやはり制約のある映像表現を補い、実際に目に見えるもの以上のものを現出させなければならないのであるから。

この映画は、そうした仕事をする職人=音響マンたちのインタヴューから幕を開ける。彼らは口々にひとつの固有名に言及する。「音響」という職能そのものを産み出したと言ってもよい男、大野松雄。オシレーターとオープン・リールのテープ・レコーダーを用いて、誰も聴いたことのない音を産み出し、伝説と共に姿を消した男。彼の産み出した数多の音のひとつが、「キュッポンッ、キュッポンッ、キュッポンッ……」というアトムの足音である。手塚治虫の要求すらはねのけてサウンド・トラックの隅から隅まで「デザイン」したという逸話の数々。そういえば『ウルトラセブン』に夢中になっていた幼年時、宇宙には電子音が鳴っているものと信じていたわけだが、そうした表現方法の源には大野松雄がいた、ということになるのだろう。だがその張本人は、そうした「音付け」の域をはるかに逸脱し、音響によって「宇宙の果て」を探索するという旅に出てしまい、そのまま姿を消してしまったらしい。

不在の真犯人・大野松雄を巡って、ほとんど『ゴドーを待ちながら』の様相を呈しながら映画は続く。予備知識のない観客ならば、これはもしや本人は登場しないまま幕を閉じるというパターンなのではないか、というおそれが頭を過ぎるだろうが、あっさりと御大登場となる。

大野松雄は、滋賀県の知的障害者施設で、四十年以上にわたって彼らの演じる芝居の音響を手がけてきたのだという。その施設についてのドキュメンタリー制作に関わり、そのドキュメンタリー作品が持っていた視点そのものへの疑問を感じて以来の事とされる。パレスチナに残ってしまった足立正生の足跡と重なりはしないだろうか。ところが、天才肌の頑固者として語られてきた大野松雄は、「がっつり一緒に仕事をするのは大変だったろうなあ」という理屈を超えた偏屈の片鱗をそこかしこに漂わせつつも、そんなにストレートな佇まいではいない。障害者への視線は、当然のことながら単純なヒューマニズムに支えられているわけではないだろう。パードン木村によって構成されたこの映画自体の音響のあり方によるところも大きいのだろうが、施設での演劇は、「宇宙の果ての音」とほぼ同じ求心力で大野松雄を捉えて放さないのだろうな、と感じさせられる。

とにかく、見た目は完全に脱色された「おばあさん」。話しっぷりも角張ったところがなく、ゆるく愉しい。「プロの条件はふたつある。いつでもアマチュアに戻れること。どれほど手を抜いてもそれを悟られないこと」という意味のことを何度も口にする。一つ目の意味はまだあまりよくわからないものの、二つ目の条件にはその通りと深く頷かされる。

というくだりにまでさしかかってみると、もはやこれは「音響」についてのドキュメンタリーではないし、大野松雄の「活動」についての記録でもなければ、その「作品」についてのコメンタリーでもないことに気づくだろう。ありきたりな言い換えになってしまうが、大野松雄自身が、「宇宙の果ての音」そのものということなのだ。ちょっと人をバカにしたようなナレーションで油断させながら、何食わぬ「天然面」でそんなところまで我々を連れて行くこの映画にも、少しだけ嫉妬させられる。

『アトムの足音が聞こえる』
ユーロスペースにて公開中、他全国順次公開

□『アトムの足音が聞こえる』オフィシャルサイト
http://www.atom-ashioto.jp/

公開情報

©シネグリーオ 2010



初出

2011.06.01 16:00 | FILMS