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『木村栄文 レトロスペクティブ』

すべて「新作」!

文=

updated 02.10.2012

「まだ観ぬ作家を追悼することも再評価することもできないはずだ」。

チラシの惹句にもそうある。もちろん、異論のあるはずがない。

1935年生まれの木村栄文とは、1970年代から90年代にかけての約40年間、RKB毎日放送のディレクターとしてドキュメンタリーを作り続けた男である。あらかじめ記しておくと、彼はすでに2011年、この世を去っている。つまり新作を見ることはもはやかなわないわけだが、木村栄文の作品に接したことのない人間にとって、彼の残したまだ見ぬ作品はすべて新作なのだから、ひとまずその幸福をかみしめるのが筋だろう。

とにかく、どれから見るべきなのか判断がつかなければ、何も考えず劇場に飛び込めば良い。9プログラムに分けて上映される12作品のうち、どれに出会ってしまっても、テレビという媒体に「こんな自由」があったのかという素朴だが決定的とも言える驚きにはじまり、その「自由」というのは「不可解なものに接する自由」だったのではないかとか、不可解なものの排除を望み「不自由さ」を望んだのは結局のところ誰だったのか、いや、「不可解さ」などと言ってしまったがどの作品も「わかりにくい」ということではないぞ、それではいったいどういうことなのか、などといった、散り散りに乱れ飛ぶ感想一切合切すべてをひっくるめた上で、ひと言「面白い」と漏らすしかない体験が保証されているは確かなのだから。


『あいラブ優ちゃん』より

例えば、障害児である我が子を撮った『あいラブ優ちゃん』(76)。これはただ単に、障害を背負った子供とその家族に関する心温まるセルフ・ドキュメンタリーではない。今の時代であれば、このテーマの作品には決して差し挟まれることがないであろう酷薄な真実が、しかも健常者も含めた人間すべてに普遍的に当てはまる哀しみのようなものが、映像として提示されるのだ。そして、その事実に気づくかどうかに関わらず、作品を見ながら知らず知らずのうちに涙を流していることに気づくだろう。


『あいラブ優ちゃん』の中で見られる木村栄文(きむら・ひでふみ)その人

一方で、高倉健と共に作家・檀一雄晩年の足跡を辿るという、一見ごく当たり前に見える作品、『むかし男ありけり』(84/トップのスチール写真)もある。だがここにおいても、高倉健という大スターの身体を確保しておきながら、ディレクターである木村自身が常に画面の中にはみ出てくるのがまず可笑しいし、ふたりともに、檀一雄という男に腹の底から惚れるあまり、元愛人のところにまで押しかけて何を尋ねたいわけでもなく、ただもじもじしたりして、スリリングというよりはなんだかコミカル。とにかく、「壮絶な作家人生」についてのドキュメンタリーのはずが、いつの間にやらそういう男に対して男の抱く憧憬をそのものについての記録と化してゆく。女性の観客が見れば、傍迷惑な児戯と感じられながら、バカバカしくもかわいらしいということになるのだろう。「これだから男は……」と。


『まっくら』より

はたまた、73年に作られた『まっくら』(73)は、失われゆく炭鉱とそこに生きた人びと生活の記憶を、今で言うところのフェイク・ドキュメンタリー的手法をまじえながら、前衛演劇的風景の中に真実を包摂することで、記録ではなく記憶そのものを、言語化不可能なレベルで映像化しようと試みた作品のように見える。「フェイク・ドキュメンタリー」と「前衛演劇」、とあっさり並列してしまったが、本質的に矛盾するはずのこの二つが、どういうわけか互いを補完し合って別の機能を果たすこともあるという事実に、動揺させられる。

と、ここまで書いてみてもまだ上映9作品のうち半数にも達していないのだ。こんなうれしいことは、なかなかない。

『木村栄文 レトロスペクティブ』
2/11(土)〜3/2(金)オーディトリウム渋谷にて開催ほか全国順次巡回

□ オフィシャルサイト
www.kimura-eibun.com/

トップ/サムネイル:『むかし男ありけり』より

公開情報

(C)RKB毎日放送



初出

2012.02.10 10:30 | FILMS