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イエジー・スコリモフスキ監督
『エッセンシャル・キリング』

すべてが、今この瞬間の中に現出する

文=

updated 08.01.2011

砂漠をゆく数人の人影。武器を携えている様子は兵士のようではあるが、戦闘服を着ている者とそうでないものが混ざっている。その上空をヘリコプターがゆく。カメラはヘリの中にあったり、地上の男たちの脇にあったりする。米語をしゃべっているので、アメリカ兵ということなのだろう。であれば、この砂漠は中東一帯のどこかということになるのか。そうしたことを示す確たる目印はない。

という風にこの映画ははじまる。ヘリもまた米軍のもののようであり、要するに彼らの作戦行動を上空から見守る役回りのようだが、映画そのものが地上の側に寄り添うことになるのか、空中の側に寄り添うことになるのか、我々の目が馴れてしまった、今のスタンダードな映画の語り口からすると、いつまで経ってもわからない。

やがて洞窟の奥深くに潜み、アメリカ兵たちを殺戮するひとりの男が現れ、ようやくのことで、この映画はその男の物語を語るのだということが明らかとなる。ただし中東風の衣装を着たその男はヴィンセント・ギャロであり、言語を口にしないためほんとうのところは何人なのであるか、最後まで判然とすることはない。

ただひとつ明らかなのは、この男が米軍の捕虜となり、尋問を経て移動中に発生する偶発事故により「自由」を得て、雪深い森の中をひたすら移動し逃げ続けなければならなくなるということである。そしてそれこそがこの映画の物語なのであるから、そこに曖昧なものはなにひとつない。

つまり、冒頭から固有名化を避けながら進行してきたこの映画の語り口は、謎めきをまぶして観客の関心を惹いたり、美的な選択として不確定性を身にまとって見せたものではない。それはむしろ、ひとりの男が自らの生命を賭した逃避行を続けるという、これ以上は望めないほどに明確な物語を紡ぎ出すために必要なものだったのである。

かくて、我々は並走することになる。

木の皮を囓り、通りすがりの女の母乳を飲み、魚を盗み、人間から動物までの生き物を殺しながら男は進む。その行動は、一片の余裕も差し挟まれない必然の連続であり、それが故に哀しい滑稽さすらが始終つきまとう。

思えば、そうした哀しい滑稽さこそがヴィンセント・ギャロの体現してきたものであり、この映画での道行きもまた、そういう意味で『ブラウン・バニー』を想起させたりもする。だがもちろん、ギャロ監督作品のような、泣き言と繊細さの仮面はどこにもない。

そもそも、主人公が何者なのかということはおろか、生者なのかどうかすらある地点からどうでもよくなるだろう。彼が結局生き延びるのかどうか、そんなことも念頭からはいつのまにか霧消しているのだから、問題はそんなことではない。男の内面を映し出していたかに見える映像は、そのまま、命を脅かす極寒の景色にシンクロしてゆく。外面も内面も、過去も未来も、すべてが今この瞬間、我々の見つめるショットの中に現出しはじめる。

ここにあるのは、生を求める旅の果てに、いつのまにか死の側へというよりも死を超えた地点へと突き抜けてしまっていた、というような、あらすじとか映像の美しさとかスタイルだとかいった映画にまとわりつく上っ面の戯言とはまったく無関係の体験そのものなのであり、それ以上でも以下でもないなにものかなのだ。

『エッセンシャル・キリング』
シアター・イメージフォーラムほかで全国公開中

□ 予告編

□ オフィシャルサイト
http://www.eiganokuni.com/EK/

初出

2011.08.01 11:30 | FILMS