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サラ・ポーリー監督
『テイク・ディス・ワルツ』

“あり得たかも知れない”という認識の地獄

文=

updated 08.09.2012

やがてキッチンだとわかることになる空間には黄昏の光が充ちていて、その中を一人の女性が動きまわりながら料理を続けている。被写界深度の浅いクロースアップ・ショットの連続は、耐え難い澱みを体現しているようにも見えるし、記憶の中にしかないかけがえのないひとときを捉えているようにも感じられる。だがそれにしては、オーヴンにもたれかかる彼女のしぐさは、倦怠としか呼びようのない空気を湛えている。

間もなく、女性のパートナーとおぼしき男性が現れる。その段になってようやく、やはりこれは“事後”の光景なのだろうと了解する。もう二人の関係は終焉を迎えているのだと。男性は、すぐそこに立っているが、ぼんやりとした光の中で後ろ姿のシルエットを見せるだけで、一向に結像しない。

すべてを見終わった後、このファースト・シークエンスの中には、最初に想像した以上にこの映画のすべてがあったことに気づき、静かに、最後の一撃を受けることになるだろう。

サラ・ポーリーはこの映画で、ひとりも悪人がおらず、誰も悪意を持たないのにもかかわらず、どうしても悲しみが生成されてしまうという物語を、群を抜いた映像センスによって語る。それは“内面の声”が故の悲しみであるので、我々の決して逃れることの出来ない必然にほかならない。この世界では、目に映るあらゆるものが手に入れられる可能性を持っている。それ故、我々の内側にはいつでも欠落感が存在し、それを埋めることができない。

ひとことで言ってしまえば、“幸せな”結婚生活を送っているはずの女性が、どういうわけかいつの間にかある欠落感を内に巣くわせていて、しかもそのことにすら気づかないで、あるいは気づかないようにして生きているのだが、ふとしたことで、それを埋めてくれるかも知れない男性に出会ってしまう、いや、この男性が埋めてくれるのかも知れないと感じてしまう、という物語である。だから、これはある運命的な出会いを描く、“ロマンティック・ラヴ”礼賛の物語ではない。

例えばヒロインの義理の姉、すなわち夫の姉は、アルコール依存症という衝動抑制障害を抱えている。それ故に、内なる欠落が埋まることは決してないことを、身をもって知っている。だが、“内面の声”に従っても従わなくても、悲しみは生まれる。それは生まれるというよりも最初から我々の中に存在しているというよりも、我々を構成するもののひとつなのだから。もちろん、ヒロイン自身もそんなことは百も承知だろう。誰もが百も承知のことなのだ。それでも、生きている以上どちらかを選択しなければならない。そしてどちらを選択しても、“(こちらを選択しなければ)あり得たかも知れない世界”が、我々の内に生成され、我々を蝕み始めるのだ。

ことほど左様に、まずは見事な脚本が書き上げられている。すべての登場人物のすべての要素が、人間の抱える本質的な欠落と、それを糊塗するシステムとしての家族を巡る考察によって読解可能な場所に配置されている。その上できわめてバランス良く、語りに奉仕させるべきシーンと、陶酔力を極限まで高めた、映像としてのおかずたっぷりのシーンとで全体が構成されてゆくので、決して理に落ちた知的なだけの作品を見ているという気分にはならない。なにしろ、ラカンなどと口にする必要もなく、見る者を饒舌にするのだ。

さらに言うならば、キャスティングにも瑕疵がない。なによりも、ミシェル・ウィリアムズの身体が持つ、憎らしいまでにリアルであるにもかかわらず、時折往年のイングリッド・バーグマンの面影すら召喚してしまう驚くべき立派さを持った造形。若干小太りにも見え、決して誰もが振り返る美しさではないというレベルに調整されながら、油断するとハッと目を奪われる輝きを放つ。そのようにして、彼女の選ぶ道に対して観客が抱くことになる嫌悪と共感を、思う存分にコントロールしてくれるのである。ヒドイはずなのに甘美な触感を残してしまうというこの映画の味わいは、ミシェル・ウィリアムズの身体によるところが大きいだろう。

もちろん、いつものアホっぷりの記憶があるからこそ何倍も切なさを感じさせられるという、夫役セス・ローゲンの敢えて凡庸な存在感も効きまくっているし、上述の義姉役サラ・シルヴァーマンのザックリとした雰囲気もまた見事に機能している。それにしても、アルコール依存症という最も“われを見失っている”とされているはずの人間だけが、一般的な“人間性の規範”の枠の中に留まるために、内なる欠落=渇望と必死の戦いを重ねているが故に、透徹した視線を持っているというこのリアリズムを、三十そこそこのサラ・ポーリーがどこで手に入れたのだろうか。人生の宿題を、丁寧にこなしながら生きてきたと考えるほかないのだろうが……。そして、ルーク・カービー演じるところの、ヒロインの“出会ってしまう”男の人物造形は、おそらくこの映画の中で最も「薄っぺら」と批判される可能性を秘めている部分である。しかしながら、漠とした欠落感を埋めてくれるかも知れないものなど、そもそもがそういうものではないか。いったい、その手の薄っぺらさ以外の何が欠落感を埋めるという夢想をかきたてるものだろうか。

冒頭のシークエンス同様、この映画そのものを体現するシーンがもうひとつある。場末の遊園地の乗り物に、ヒロインが男と二人で乗る。照明が消え、装置はゆっくりと回転をはじめる。照明が明滅を始め、「ラジオ・スターの悲劇」が鳴り響く。太い低音のリズムは高まり、甘美なメロディと共に、装置にはさらなる回転軸が加わる。ヒロインは、複雑かつ高速な動きに身を委ねながら微笑む。その時、映画を見ている我々にとっても、至福の瞬間のひとつが訪れるわけだが、それは突如断ち切られる。音楽は止み、味も素っ気もない蛍光灯が灯り、太った従業員が安全バーを上げてゆくのだ。

かくて、ヒロインの人生は季節をぐるりと巡り、また元の場所に戻るのである。それはとてつもなく悲しい事実であるし、とりかえしのつかない罪悪ですらあるようにも感じられるのだが、そのことに対する処方箋はひとつもない。どのようにしても、それを避けることは出来なかったのだ。今日でなければ明日、この人でなければあの人が、やがてはやって来る。この認識には、どれだけ美しく甘美に、陶酔的に語られた映画を前にしても、地獄の二文字がふさわしいだろう。

このように、テーマとフォルムの強度が驚くべき高みで一致している作品には、久しぶりに接した。撃たれてしまった、としか言いようがない。

☆ ☆ ☆


『テイク・ディス・ワルツ』
8月11日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽
町、Bunkamuraル・シネマ他公開
(c) 2011 Joe’s Daughter Inc.All Rights Reserved.

□ オフィシャルサイト
http://takethiswaltz.jp/

初出

2012.08.09 10:30 | FILMS