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トム・フランクリン『ねじれた文字、ねじれた路』
&デイヴィッド・ゴードン『二流小説家』

「メタ」と「ベタ」

文=

updated 12.28.2011

『ねじれた文字、ねじれた路』のような作品を読むと、うまくできた「ベタ」の力に勝るものはない、と感じさせられてしまうのだが、一方で『二流小説家』を読んでしまうと、我が家に戻ってきたような「メタ」の居心地良さもある。そういうわけで、共にハヤカワ・ポケミスという以外に何の共通点もないはずの作品なのだが、どうしても並べてみたくなってしまった次第。

トム・フランクリンによる前者は、幼年期と成長の切なさを巡る、言ってしまえばジョン・ハートによる『ラスト・チャイルド』と同じ射程圏にある物語りということになるだろう。1970年代、人種隔離の残響あるいはそれのもたらした捻れの消えきっていないアメリカ南部の田舎町で、白人少年ラリーと黒人少年サイラスがひそかな友情を育むが、歪んだ大人の事情に浸食され、たちまちの内に疎遠になる。時は流れ、ふたりが中年にさしかかった頃、ラリーは高校時代に少女失踪事件の被疑者となって以来静止したままの時間の中、息を潜めて生活している。一方サイラスは治安官として勤務しているが、そんなある日、かつての事件を思わせる出来事が発生する。という筋書きで始まるこの作品では、謎の解明と共に、失われてしまった時間を回復させようという試みが行われるわけだが、当然流れてしまったものを元に戻すことはできない。それでも静止していた生だけは、最終行に至ってようやく動き始めるという、深く心を動かされざるを得ない物語が、ひたすらその物語に奉仕するためだけに語られる。そこでは、ジャンルの記憶やら、お約束といったものはほとんど意味を持たない。つまりは、「ベタ」の力でじっくりと徹底的にツボを押してくる作品なのだ。

一方のデイヴィッド・ゴードンによる作品は、作家本人がカルチャー/サブ・カルチャー周辺の様々な稼業を経てようやく辿り着いた小説家であるだけに、ありとあらゆるジャンルとスタイルと作品の記憶が集積されている。その中には昔懐かしいマヌエル・プイグ(『蜘蛛女のキス』など)のような作家もいるだろうし、当然ブレット・イーストン・エリス(『アメリカン・サイコ』など)やらアメコミやらサリンジャーの遙かな残響すらある。しかも、ちょっと日本の少年マンガを思わせる、中年男と女子高校生の転倒した可笑しい関係も中心部に設置される。そうしたものの中で、連続殺人鬼とされている死刑囚の抱える謎を巡る物語が展開されるのだが、ミステリーとしての本筋が「骨格」、カルチャーへの目配せが「肉付け」、といったような分割ができないようなレベルで、両者ががっちりと一本の幹を作り上げているというところに、この作品の強さがあり、魅力が存在する。要するに、単なる「メタ」ではなく、「メタ」を「ベタ」化することに、ある程度成功しているということなのだ。

そう考えてくると、結局のところ、このふたつの作品の間に大きな質的差があるわけではないのだが、どちらかと言えば、弱ったときには前者を読みたくならないだろうか。それが「ベタ」の力だろうか。ちょうど、もっと弱ったときには、ディックを読みたくなってしまうように。

『ねじれた文字、ねじれた路』
トム・フランクリン/伏見威蕃訳/早川書房
『二流小説家』
デイヴィッド・ゴードン/青木千鶴訳/早川書房

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年内のアップは本日(12月28日)までとなります。
2012年は1月1日に「スペシャルイシュー/This Year’s HOPE 染谷将太」からスタートします。ご期待下さい。

初出

2011.12.28 11:30 | BOOKS