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フィリダ・ロイド監督
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

来るべき「人間ドラマ」の予告篇として

文=

updated 03.19.2012

90年初頭のイギリスに行くと、ちょうど人頭税が導入されようというタイミングで、町には人びとの怒りが充満していたことを思い出す。田舎町のパブで毎晩顔を合わせていた退役軍人は、フォークランドで負傷した脚を微かに引きずっていた。定住はせず国内を移動し続けていると語る彼は、負傷とは言っても戦闘中のものではなく、後方で軍用車輌に挟まれたせいだから、特別な手当は出ないんだと静かに口元をゆがめて笑っていた。「下宿先の大家に申告されたら、オレも人頭税を払わなきゃいけなくなる。その前にこの町は出るつもりだ」とも話していた。テレビでは反人頭税デモの映像が繰り返し流れ、その合間には、74年に起こったパブ爆破事件の犯人とされた「バーミンガム・シックス」のドキュメンタリーが放送されていた。ロンドンの地下鉄に乗っていると、突如車両が停車し、退避させられたこともあった。爆破予告を受けてのことだった。いや、あれは90年代後半のことだっただろうか。そういえば、80年代初頭に幼年期をイギリスで過ごした友人からは、フォークランド紛争の時には、敵国アルゼンチンがイギリス本土にまで攻め込んできて大変な戦争に発展するのだと恐怖におびえたと聞かされたことがある。

そういったイギリスの持つ負のイメージは、当然ながら80年代を通して首相を勤めたサッチャーの姿と重なっている。そして、そのサッチャーを主人公としているからといって、この映画を通して、彼女が業績についてまったく新しい視点なり知識が与えられるわけではない。政治的な価値はすべて留保されたまま、サッチャー政権前後の歴史がざっとダイジェストされるに留まると言った方が良いだろう。いやむしろ、歴史をニュートラルにおさらいすることで、それが政治家としてのものなのか人間としてのものなのかはわからないが、そして肯定的否定的を問わず、来るべき「人間サッチャー」再評価のための地ならしを行うことが目的であるようにも感じられる。つまりイギリスは、サッチャー政権からようやく十分な時間的距離を隔てつつあるということになるのか。

本作は「人間サッチャー」について、「おそらく彼女にもこういう側面があるのだろうけれど表面からはうかがい知れない」と誰もが感じたが故に「鉄の女」と呼ばれたような種類の要素を、注意深く取り上げてゆく。その象徴が夫デニスの存在である。彼の(イメージ上の)不在によって、「鉄の女」は「鉄の女」であったようにも感じられたわけだが、死を経て数年の経過した時点で、なおも存在を止めないデニスとの対話によってこの映画は進行するのである。認知症を患い始めているサッチャーは、遍在するデニスの幻影を振り払おうとするたびに、過去の記憶を蘇らせる。おそらくは、この仕掛けを導入したことでようやく劇映画としての構造を得た。だがそこから、カタルシスを導き出すことはしない。

それでもこの映画は、サッチャーという存在は興味深いと感じさせることには成功している。下層中産階級である商店主の娘として生まれ、訛りを矯正しながら男性社会の中枢たる政治の中に身を投じ、「男性以上に男性的な」首相として采配をふるい、圧倒的な悪評の中でその座を辞した女。娯楽としての人間ドラマを紡ぐ要素は、いくらでもある。そう感じさせただけでも、本作は歴史的な役割を果たしたということになるのだろう。

☆ ☆ ☆

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』
TOHOシネマズ日劇ほか全国ロードショー
©2011 Path_ Productions Limited , Channel Four Television Corporation and The British Film Institute.
配給:ギャガ

□ オフィシャルサイト
http://ironlady.gaga.ne.jp/

初出

2012.03.19 09:30 | FILMS