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ポール・トーマス・アンダーソン監督
『ザ・マスター』

飲み込みにくさとふたりの男の生きにくさ

文=

updated 03.21.2013

思えば、『ハードエイト』(96)は端正な物語とフォルムを持つ疵のない人間ドラマだったが、第二作目の『ブギーナイツ』(97)ではすでにして70年代のポルノ業界を主題に選び、いろんな次元での破綻を怖れないというより破綻など思いもよらないというような伸びやかさを見せていた。

それに続く『マグノリア』(99)と『パンチドランクラブ』(02)という、不意打ちの衝撃力を巡る二つの変奏曲までは、技術、伸びやかさ、そしてすべてをぶちこわしにしかねない圧倒的なものへの強い欲望という点で、我々はひとつひとつの作品に感心させられてきた。

だが、前二作品と同じ主題線上にあった『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)に接して、“口当たりの良さ”という商品としての結構を捨て去ることで、あながちに不可解さを引き寄せようとするその姿勢に、文芸ものの枠内に安易に収まり込もうとする自意識を感じ、やや警戒心をかきたてられたものだった。

ところが最新作『ザ・マスター』を見てみると、実のところその自意識もまた、すなわち自意識の枠を破壊し自分よりも遥かに大きなある圧倒的なものを探り当てそれに激突したいという、誠実な足掻きの結果だったのではないかと感じられはじめ、ようやくのことで好感の気持ちが芽生えた。

つまり『ザ・マスター』では、とうとう背伸び感がなくなり、サイエントロジーという宗教団体とその創始者を巡る内幕ものの枠など遥かに飛び越えて、宗教と精神疾患という、共に個人の生を圧倒する力と拮抗しながら生きなければならないふたりの男を巡る、極めて精神分析的ではあっても、決して飲み込みやすくはなく、しかもそのことが難解さのための難解さではなく、主人公ふたりの抱える困難そのものとぴたりと重なっているという、その圏内に留まることができたのは奇跡としか思えないようなことが起こっていたのだ。ほんの少し間違えると自堕落な文芸ものに、別の方向にわずかでも逸れていれば薄っぺらな暴露ものに陥っていてもおかしくなかった。

 

時は1950年代。ホアキン・フェニックスは、アルコール依存を抱え、爆発する感情と暴力衝動をなかなか抑えられない退役軍人フレディ・クエルであり、フィリップ・シーモア・ホフマンは、ザ・コーズという宗教団体を率いる「マスター」ことランカスター・ドッドである。

ふとしたことでふたりは出会い、周囲の人間にとっては不可解にも感じられる絆によって結ばれてゆく。それは、「マスター」が迷えるクエルに対して救いの手を差し伸べているという図式によって行われる。

 

だが実のところクエルは、「マスター」が抑圧している自己の一部そのものを体現している存在にほかならない。ふたりは相補的な関係にあるというより、同じ人間の裏表であると言った方が実態に近いのだ。つまり、ふたりは互いに互いの欲望を実現し合う関係にある。であるが故に、「マスター」にとって、クエルの抱える「病」を治療しようとすることは、クエルとの関係の終焉を意味するし、クエルにとって「マスター」の意志を先読みしながら仕えることは、「病」を持続させるということになる。

彼らは必然的に惹かれ合うが、互いのそばに留まる限り、困難から逃れることはできないという宿命にある。ふたりの男の間で作用する引力のせめぎ合いが世界をドライヴし、うねりまくらせてゆく。

そんな物語が、幾通りにも解読することの出来る構造を持って語られてゆく。だが、そうしたフォルムの複雑さは、決してわかりにくさを生み出しているわけではない。むしろ、スクリーンに映し出されている出来事そのものは、透明なほどにわかりやすい。その上、65ミリで撮影されたというこの映画は、映像としての風格も身につけている。このレベルの美しさに到達してしまった後には、それをさらに破壊してもらいたいものだが、果たして次回作ではどうなることか。

☆ ☆ ☆


『ザ・マスター』
3月22日(金)TOHOシネマズ シャンテ、新宿バルト9ほか全国ロードショー
(C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.
公式サイト http://themastermovie.jp/

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初出

2013.03.21 11:00 | FILMS