ひとつの殺人事件を題材として撮影された一本の映画があるのだが、その映画でヒロインを演じる女優自身もまた、ある事件に深く関与しているらしい。そしてその事件における彼女の役割とは、どうやら、あるひとりの女を演じることに関わっていたらしい。
一方で、撮影されつつある映画の監督はその主演女優に深く取り憑かれ、脚本と創作上の要請を大きく逸脱しながらのめり込んでいくのだが、その視線の中で女優の方もまた、二重の役柄と自分自身という三つの境界線の中で溶解してゆくように見える。
ある時点まで、これは映画の中の現実、これは映画の中の映画、これは映画の中の偽りという意味での現実、といった具合に境界線を引きながら物語を追うことが可能なのだが、そういう見方ではどこにも辿り着かないということが了解される。
プレス用のインタヴューにおいて監督ヘルマンは、「自発的な不信感の宙吊り」という言葉を用いているが、ことほど左様にこの作品は、ひとつの殺人とひとりのファムファタールを巡るフィルムノワールであり、気恥ずかしいまでにストレートなシネフィル映画であり、そしてもちろん映画の中の映画とその映画を作る者たちの映画、さらにはそれを見ている我々についての映画であり、ひとことで言えば、境界線についてのというより、境界線そのものであるような映画なのだ。そして
その境界線上ではトム・ラッセルの太く暗い声が響き、宙吊りの時間そのものの中にアメリカという場所の持つ記憶を幾重にも召喚することで、『果てなき路』という映画の輪郭そのものが、あやういところで成立しているように見える。そのスリリングさによって、我々はただ狐につままれたような気持ちでメタ映画を見るのではなく、ある濃厚な体験としてこの映画に触れることができるのだ。
『果てなき路』は、ラッセルによる「Tonight We Ride」と「Touch of Evil」の二曲から着想されたという。前者は国境の北側にある小さな町コロンバスを蹂躙したパンチョ・ビージャを追って南に下る男たちの歌であり、後者はオーソン・ウェルズ『黒い罠(Touch of Evil)』冒頭の“史上最長”のパンショットが撮影されたという古い運河近くに育った男が、国境の河リオ・グランデに架かる橋を思い、男と女を隔てる国境地帯を思うという歌であった。
そもそもトム・ラッセルには、『Hotwalker』というアルバムがある。副題に「Charles Bukowski & A Ballad for Gone」とあるとおり、LAとNYの間に拡がる広大な砂漠と国境地帯の乾いた空気の中に消え去り忘れ去られた境界線上の、あるいは境界線からはみ出てしまったアーティストたちによる「亡霊ラジオ放送」、というのがそのコンセプトであった。『果てなき路』という新作まで21年の間、モンテ・ヘルマンという固有名が同時代の中から消滅していたことを考えると、『Hotwalker』における時空を越えた音響空間こそが、この映画との間に真の鏡像関係を結んでいるのだろうと想像したくなる。
「Touch of Evil」は終盤にいたり、「テクニカラーの恋愛映画じゃない。残酷なドキュメンタリー、フィルム・ノワールだ。国境地帯で撮影され、俳優たちは全員悲しいまでにミスキャスト」と吐き捨てるように歌われる。
映画学校を出たての若造ではなく、80を迎えるモンテ・ヘルマンによって撮り上げられた映画であるからこそ、この映画は「残酷なドキュメンタリー=フィルム・ノワール」として、我々を撃つのである。
『果てなき路』
渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開中!
□ オフィシャルサイト
http://www.mhellman.com/
公開情報
(C) 2011 ROAD TO NOWHERE LLC
初出
2012.01.17 14:30 | FILMS