そういえば幼年時代は漂流ものが大好きで、『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』はあたりまえとして、他にもいろいろと読みあさっていた気がする。その中には、海水と真水を1:3の割合で混ぜれば摂取しても身体に害がないことを証明するために行った実験の記録である斉藤実の『太平洋漂流実験50日』や、古典中の古典、『コンチキ号漂流記』も当然含まれていた。後者については、もはや誰の手による児童向け翻案だったのか記憶に無いが、父の書棚には英語版もあったぐらいで、世界的ベストセラーであることは知っていた(全世界で5000万部を売り上げたという)。
物語そのものの記憶も、ひとりの学者が自らの学説を証明するために命を賭けた話、ということ以外はすべて消えてしまっている。でももちろん、それでおおむね間違いはない。トール・ヘイエルダールという人類学者が、ポリネシアの人々の起源は、南アメリカから筏に乗って海を渡ってきた人々にあるという、誰も信じる者のいなかった仮説を証明するために、当時(1500年前)の人々が用いたであろう筏を組み上げ自ら乗り組み、ひたすら海流に乗って漂うことで南太平洋に辿り着いて見せたというお話なのだから。
だが、漂流や遭難時のサヴァイヴァル・テクニックを知る楽しさ以外に、この種の物語がなぜ子ども心を強烈に惹きつけたのかについては、改めて確認することができた。この映画自体、そこに焦点を絞ったが故に成功したという部分でもある。
つまりすべては、劇中ヘイエルダールの口から再三再四発せられる「信念」という言葉なのだ。その「信念」に命がかかっている状況下では、「思い込み」と言い換えても、「盲信」と言い換えても「狂信」と言い換えても良いだろう。あるいは、「もしかしたら自分は間違っているかも」という疑念をどのようにして押さえ込み、切り捨てていくことができるのか。あるいは、どうすればそもそもそうした回路を持たないということができるのか。
つまり、恐怖を感知しない才能、もしくは、狂信によって恐怖を抑圧する才能というものがあるのだ。ほとんどのひとはそんなものを持ち合わせていない。なぜなら、それは種として危険なことであり、本来的にはむしろ「欠陥」と呼ぶべき性質なのだから。だが、動物としての欠陥こそが人間を動物と分かつものであり、であるからこそ我々は、この手の人間の行為に深い感銘を刻まれるのである。
この映画では、戦前のポリネシアでの経験の中で妻との関係を巧みに描くことから始められ、航海にこぎ着けるまでの困難、そして航海が始まってからの、南赤道海流に乗るまでの日々を中心に、その中でも特に「信念」の試される瞬間を執拗に取り上げつなぎ合わせることで物語の骨格が構成されている。アクションとしての大冒険ではなく、「間違っていたらどうする?」という思いの兆す瞬間が、後から後から主人公たちを襲うのである。
だが、ヘイエルダール自身だけは、揺るがされているようには見えない。唯一、家族を放擲して自らの信念の正しさを証明することだけにすべてを賭けるという、身勝手な夫としての己を微かに認識しているようではあるが、それが彼の信念を曇らせることは一切ない。ただ諦観の微笑みを浮かべて、誰にも求められていない受難の旅に出るのである。
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初出
2013.06.27 08:30 | FILMS