依存症関係の言葉に、「底つき」という表現があるらしい。家族など近しい者をはじめとする周囲のあらゆる人間を欺き、「その気になればいつでも止められる」と誰よりも自らを欺きながら依存の度合いを深めて行き、いろんなレベルで収拾が付かなくなっていった先に、自分が死にかけたとか、人を殺しかけたとか、社会的信用をすべて失ったとか、とにかくもうどうにもごまかしようのない状態が訪れ、そのカタストロフィーを契機として、そのままのたれ死ぬのでなければ回復の道を歩み始めるしかないという地点を過ぎた者が、しばらく賢明に足下だけを見つめて歩み続けた後でふと、「そういえばあのときに自分は底をついたんだなあ」と気づくのだそうだ。
デンゼル・ワシントン演じる主人公は天才的と言っても良いパイロットで、二日酔いをコカインで吹っ飛ばした状態で操縦席に座っても、常人離れした技術と判断力によって多くの乗客を救うことができる。だが、まさにその高度な技術によって、彼は自分自身を救い出す機会を逃したまま、これまでなんとかギリギリのラインでうまくやってこられていたのだということを我々は理解する。つまり、一方では「このままいつまでもやっていけるわけがない」と了解しながら、もう一方では「なんとかこの困難だけは切り抜けてもらいたい」と願ってしまうという、依存症当事者と同じ背反する欲望に引き裂かれた宙吊り状態に、観客は置かれることになるのである。
そういうわけで、この映画において主人公の辿る道程自体は、ほぼ教科書通りのものと言っても良いだろう。ただし、ただ単に教科書が正しいということが示されるのではなく、すべての種類の依存症、あるいはもっと広く精神疾患に関わる問題に目をつぶることもしていない。つまりは、依存症を抱えた(病を抱えた)人間の人格から依存症(ないし病)を取り除いたとき、彼(女)はそれでも元の人間のままと考えて良いのだろうかという素朴な疑問である。この映画においては、この天才パイロットは薬物依存がなくても天才のままでいたのだろうか? という疑問になるだろう。
「実存」なんていう言葉を持ち出すまでもなく、これは極めて居心地の悪い問いでもあるだろう。なぜなら、そのようにして一枚一枚皮膜を剥いでいった先にはなにも残らないことを我々は経験上知っているのだから。
このように、一見極めて保守的な価値観を体現しているだけであるかのように見える物語が、同時に恐るべき空虚そのものを突きつけているというのは、とてもゼメキス的、とも言えるだろう。我々はここで、『コンタクト』の遙かな残響をも耳にすることになる。
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『フライト』
3月1日(金)丸の内ピカデリーほか全国ロードショー
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オフィシャルサイト http://www.flight-movie.jp/
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初出
2013.02.28 10:30 | FILMS