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その続編にあたる今作では、前作以上に多くの言葉が費やされている。だが全体として感じられるのはやはり、「正解」はないという事実の持つ開放感のようなものではないだろうか。言葉によって意味を持たされたシーンとシーンの合間に、それぞれの介護施設の中の風景が短く差し込まれる。そこは必ず、様々な雑音に充ちた場所なのだが、そうした複数の人間のたてるバラバラな雑音によって包み込むということこそが、人間に寄り添う介護というものの核心にあるのだろうと思われ始める。ひとつひとつの雑音に大きな意味はないし、雑音のあり方についての決まり事もない。ただ、鳴っていることが重要なのだ、と。もちろん、雑音をただ鳴らせておくということに関しても、言語化できない様々な智慧が積み重なっているのであろうこともまた、理解される。
だから、前作同様最も辛気くさいテーマを探求しているはずのこのドキュメンタリーには、重苦しいところがひとつもない。それどころか、介護のことを考えるよすがに、などという生真面目な目的意識すら必要なく、一本の面白いドキュメンタリーとして見られるべきなのだ。前作を見ることなくこの作品に接してしまっても、その事実には変わりがない。
「介護」というのは、まず第一に「しょせん死ぬのを待つだけの仕事ではないか」、第二に「そんな不毛な仕事に従事する人間は、異常な正義感に燃える気色の悪い宗教的陶酔者に近い連中なのではないか」という先入観と思い込みにより、人間社会の中でも出来る限り視線を避けたい職業のひとつだった。しかも、いずれ避けがたく我が身にも降りかかり得る事態と関係しているものだから、なおのことイヤらしいことおびただしいわけで。
ところが、2010年の作品『ただいま それぞれの居場所』はこともなげに、介護に関するそうしたヴィジョンを転倒させて見せていた。いわく、介護従事者もまた人間であり、ほかのあらゆる労働同様、そこには宗教的な献身とは無関係の歓びがあるということ。ひとことで言えば、彼らもまた面白いから介護をしているのに過ぎないし、やりがいというものは、例えばひとりの老人の死を看取ることにある、と。もちろんラクな仕事ということではない。唯一絶対の正しい対処方法などないままに、認知症の強烈な妄想世界に寄り添い、自我すら見当たらない人間にとっての最善を考え続けるという労働なのであるから。だが、正しい解答が存在しないが故に、そこに登場した介護者たちの情熱は宗教からほど遠いし、おそらくは、それだからこそ工夫のしがい、すなわちやりがいがあるということなのだろう。
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『季節、めぐり それぞれの居場所』
ポレポレ東中野にてロードショー公開中、他全国順次公開
(C)大宮映像製作所
□ オフィシャルサイト
http://www.kisetsumeguri.com/
初出
2012.04.16 09:30 | FILMS