オットー・プレミンジャーによる『バニー・レークは行方不明』という映画がある。イヴリン・パイパーによる原作を映画化した古典だが、こういう風に話は始まる。ロンドンに引っ越してきたばかりの若いシングル・マザーが、娘=バニーを保育園に送り届ける。夕方迎えに行くと、娘がいない。担任の教師も、バニーを目にした記憶がない。その朝が初登園だったのだが、少し遅刻をしたため教師に会えず、コックの女性に言付けるかたちでバニーを残し、保育園を後にしたのだった。捜索がはじまるが、バニーの姿はどこにもない。のみならず、バニーという少女が実在した証拠も見つからない。さて、狂っているのは母親なのか、あるいは何者かの悪意が彼女を追い詰めているのか。要するに、自分が狂っていないと狂っている人間が証明することができるのか、という問題を巡るお話でもある。
『戦慄迷宮3D』によって清水崇が踏み入れたのは、ひとことで言ってしまえばそうした主観の迷宮のようなものだった。幽霊の出方を極め尽くした人間が立ち入る問題領域としては、極めて真っ当なものだろう。なにしろ幽霊の問題は、それが実在するのかどうかではなく、ある人間にとって見えてしまっているということに尽きるのだから。だから、『戦慄迷宮3D』は、3Dというギミックを用いて、見えているという体験を、観客に共有させるための映画であった。もちろんそれは、ただ視覚を共有させるということではなく、見えてしまうということのシステムそのものを共有させるということであり、その意味での「体験の共有」というだったのだ。つまり、主観として立ち現れた現実が、主観と客観の境を無効化してゆく場所に身を置かせるということでもあった。
今作もまたその延長線上で、我々は、ひとりの女=キリコの体験を共有することになる。ある晩、弟が幻を見始める。やがてそれが現実を浸食し始め、弟の姿は消える。映画の冒頭で安楽死させられるウサギのイメージが、前作においてもキー・シンボルとして機能したウサギの縫いぐるみと同一化し、それが様々なメタモルフォーゼを遂げながら、現実と非現実(あるいは主観と客観)とを入れ子状にねじり合わせつつ、歪んだ時空を体験させる。
『バニー・レークは行方不明』のような映画においては、狂っているのは誰なのかと観客と共に考え続ける、例えば刑事のような存在が現実の地平を固定させ、その上で探索が行われるところから、鋭利なサスペンスが発生する。一方清水崇の連作においては、現実の地平そのものが融解し、見えてしまっているものと見えているはずのもの、あるいは存在しているはずのものと存在していないものの関係を、どこまでも不確定化してしまう。要するにもはや、ジャンルとしてのサスペンスの範疇にもなければホラーの中にもないのである。これは、娯楽映画の作り手としては極めて困難な道に入り込んでいると言わざるを得ないだろう。もうあと一歩進めば、前衛映像になってしまう(キリコという主人公の名前が、シュルレアリストの名前と同一なのは、偶然ではないだろう)。
だがその境界線上で、もはや得体の知れないものではあっても、ギリギリ娯楽サイドにこの映画を留めているのがヴィジュアルの力であることは、言うまでもない。『呪怨』的な見え方、ほぼ『ドニー・ダーコ』的な祝祭と荒涼の混ざり合った感触、着ぐるみの外側と内側が肉体と精神のようにしてひっくり返る様子、あるいは自己と他者を隔てる膜の溶ける瞬間などなど。そうしたものを「体験」させてみせるという果敢な試みが鮮明な映像として、我々の目の前に展開される。今作ではクリストファー・ドイルの撮影により、それらイメージの輪郭がさらに際だってわかりやすくなっていることを付け加えておこう。
わかりやすく、と書いたが、この連作が拠って立つただひとつの揺るぎない地平があるとすれば、ある種の通俗的精神分析の枠組みということになるだろうが、もし三作目があるのなら、それすらを溶解させながらも、娯楽の側に踏みとどまる作品を体験してみたい、と感じた。
『ラビット・ホラー3D』
9月17日ロードショー
公開情報
©「ラビット・ホラー」製作委員会2011
初出
2011.09.05 18:30 | FILMS