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その感覚は続いていく

蔡明亮『郊遊<ピクニック>』

文=

updated 09.05.2014

たとえば「3D」や「フェイクドキュメンタリー」といったものも、体験そのものであることをめざす中で映画が辿り着いたテクノロジー/テクニックなわけだが、それとは真逆の方向性で体験そのものとなる映画もある。

あらすじに還元できるかたちでのエモーションが起動されることはないにもかかわらずひとつの自律的な時間が流れていて、観客はその中でほとんど人生そのものといって良いような体験をする。不思議なことに、スクリーン上でどれほど陰惨な事態が進行していても、あるいは逆に全く何も進行していないように見えても、その中でわれわれが体験するのはある種の心地よさであり、面白いという感覚にほかならない。そしてその感覚は、映画が終わった後も途切れることなく、われわれの内側で続いていく。蔡明亮の映画は、いつでもそういう意味での体験そのものだった。最新作にして引退作とされるこの『郊遊<ピクニック>』でも、それは変わらない。

蔡映画に出てくる人々はだれもが幽霊のような佇まいを持っているが、この作品においてはそれがさらに明確化され、われわれが生きるこの“経済”の中で不可視化された、すなわち幽霊化された“貧民”というかたちで登場する。それは、敢えて図式的にいってしまえば、いわゆる“大衆娯楽映画”とそれを支える“大衆”との関係にうんざりし、映画を作り続ける必要性を感じなくなったという彼の厳しい絶望の言葉に、直接呼応しているのだろう。

父親と思しき李康生は、“人間立て看板”として幹線道路脇にただ立ち尽くすことで毎日を過ごしている。道路を行き交う自動車の中から、看板の文字が見えることはあっても、それを支える中年男の姿に気づく者はいないだろう。その間ふたりの幼い兄妹は、消費経済の凝縮された場所である巨大スーパーマーケットの中に彷徨い込み、誰にも見とがめられることなく試食を続けている。三人は夜が来ると道ばたで弁当をかき込み、文字通り都市のすきまであるところの忘れ去られた廃墟の奥深くで眠りにつく。

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そんな彼らの姿を見ることができるのは、自身もまた、都会の不可視の狭間に生きる野犬に餌を与え続けているひとりの孤独な女だけである。スーパーマーケットの店員として可視の経済に参加しているはずの彼女は、どういうわけか半分不可視化した状態にある。商品のニオイをかぐというようなことを含む管理業務に従事しているようなのだが、それはどうしても、業務というよりもオブセッションにしか見えない。同様のオブセッションによって、夜が訪れると廃墟に集まる野良犬に餌をやるわけだ。ところが野良犬たちの方は、彼女の持ち込む餌にほとんど興味を示さない。そのことが彼女のその時点での境界性を物語っているのだろう。可視(=人間)/不可視(=幽霊)、どちらの側にも属していないのである。

そういえば、そもそも映画の冒頭、親子三人は三途の川を渡ってわれわれの目の前に登場していなかっただろうか。“人間立て看板”の仕事を放棄し、絶望のままその川を再び渡ろうとした彼らは、野良犬が発見されるようにして、女に見とめられ、救われる。

彼らは女の家に身を寄せるが、その家の壁面は不気味に焼けただれていて、幽霊屋敷以外のなにものでもない。結局のところ、親子は女の領域に身を置くことで幽霊としての存在を完成させ、女もまた三人との接触を通じて己の幽霊性を自覚したのである。

完全なる幽霊となった父と女はある夜、廃墟に残された一枚の壁画に行き会う。暗い屋内にぼんやり浮かび上がるその無人の河原の風景が、三途の川の彼岸を此岸へとつなぎ渡すものなのか、あるいはまた永遠に失われた此岸の風景を彼岸からただ痛みをもって眺めるものなのかはわからない。そこには、そうした言語化が意味を喪失する時間の流れがあり、体験がある。

思えば、蔡明亮作品の強烈な魅力のひとつであったえも言われぬエロティシズムが、この映画にはほとんどない。つまりは、奇妙にも肉体が消失している感覚が残る(唯一、蔡映画らしい肉体性を感じさせるのは、壁画が登場してからの女の行動である)。蔡明亮の映画もまた、自覚的に幽霊そのもになったということか。その幽霊が通過するとき、われわれは清涼な空気の動きだけを頬に感じることになるだろう。

公開情報

(C)2013 Homegreen Films & JBA Production
9月6日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開!
配給 ムヴィオラ