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ある普遍的な時間

マーク・ギル『イングランド・イズ・マイン
モリッシー, はじまりの物語』

文=

updated 05.30.2019

スティーヴン・パトリック・モリッシーが〝モリッシー〟になるまでの物語である以上、ザ・スミスの楽曲が鳴り響くことはない。そもそも本人の監修なり承認を受けたわけでもないのであって、その一点のみに依拠して批判を浴びせかけることは簡単にできる。だが、この作品にかぎってその必要はなかった、とまずは書きつけておきたい。実際、知力と想像力と愛情の限りを尽くして〝モリッシー〟前夜の物語を思い描いたこの映画は、合格点の域をはるかに超えていると感じた。

明らかに顔面が整いすぎているモリッシー役のジャック・ロウデンがまず、声のトーンで「おや!?」とさせ、最終的にはモリッシーにしか見えない瞬間までを引きよせる。もうそれだけでも成功ということでいいじゃないかという気分になるし、スティーヴンの女友だちが手にしている本のタイトルから彼の偏愛するレコードの数々にいたるまで、スクリーンに登場したり我々の耳に届いたりするほぼすべてのディテイルが腑に落ちるのだ。

一方で作り手のファン精神は、映画を狭い回路の中に閉じ込めるのではなく、より一般的な観客へと向けて解放する力として働いている。

いつでもぼんやり曇っていて薄ら寒いマンチェスターの街。その仄暗い片隅にあるライヴ・ハウス。夜ごとそこにあらわれるスティーヴンは、「自分の方が音楽というものをわかっている」「自分ならもっとすばらしいものを生み出せる」とほぼ無根拠に確信している。それ故に「なぜ世界は自分の存在に気づかないのか」との憤りをたぎらせ、呪詛をそのままレヴューに叩きつけては音楽誌に投稿するという日々を過ごしている。つまりは、青春期と呼ばれる屈託の時間を過ごす人間のある普遍的な姿を提示し、我々の胸を打つのである。

全能感と他人への蔑みだけを鋭くとがらせながら、なかなか第一歩を踏み出す勇気を持てずグズグズ煮え切らないという、ややこしくて気色の悪いあの一時期のことだ。中年期を通り過ぎかけていてもなお、「そんな気色悪いやつに共感なんかしないし、自分はまったく身に覚えがない」と公言する人間に出会ったら、たちまちあの頃と同じ量の怒りと軽侮が身体の中に湧き上がり、その事実にすこしだけ安堵する。この映画は、自分がそんな人間だったことを思い出させもするだろう。

そもそも、おのれの「気色悪い」姿をある高みに持ち上げて世にさらし、その中でなら聴き手の一人ひとりもまた安心しておのれの「気色悪い姿」をさらけ出すことができるような作品世界を築いたことがモリッシーの才能であったとすれば、この映画はまさしくそれに近い機能を果たしていると言えるのではないだろうか。だから、社会のどこにも居場所が見つからないアーティスト気どりの物語として、あまりにもわかりやすく類型化しすぎなのではないか、とのそしりも見当外れなのだ。

ここではもはや、モリッシー本人がこの作品をどう思っているかなどということはどうでもいいことだし、〝現実〟に起こったことと比べた時に、映画のディテイルに誤りやミスリードがあったとしても(つまり「こんなことウソだ」と言われても)、何の問題もない。

公開情報

5月31日(金)、シネクイントほか全国ロードショー
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