main

はっきりしないぬかるみの中から

ゴンサロ・ベナネンテ・セコ『革命する大地』

文=

updated 04.25.2024

1974年10月3日、ペルーの首都リマは大地震に見舞われている。マンションの7階にあった自宅には3歳の私と母しかいなかったと記憶している。調べてみると朝9時21分だったようなので、父が徒歩圏にあったオフィスに出勤して間もなくのことだったに違いない。揺れた瞬間のことは思い出せないが、「テーブルの下に隠れてなさい」と言われて、素直に従ったことはおぼえている。天板がガラスだったので、「こんなの直ぐ割れてしまうのに」と考えたこともおぼえている。おそらく何度も余震がやって来ていたのだろう。テーブルの下でかがみ込んでいると、割れたガラスの小さな破片が手もとに飛んできた。いや、もしかするとテーブルの下にもぐり込んだ時にはもうすでに破片が転がっていたのかもしれない。とにかく、赤紫色の絨毯の上でキラリと輝くガラス片が、私の最初の視覚記憶となった。顔を上げると、ベランダに面した大きな窓(その時には砕けていたのだと思う)の前に立つ母がシルエットになっていて、腰に手を当てながら外を眺めていたこともおぼえている。10月といえばリマでは冬の終わりで、たしかに空は白かった。

1974年というタイミングが、フアン・ベラスコ・アルバラード政権の末期にあたることを、このドキュメンタリーを観てはじめてまともに認識した。軍人ベラスコは1968年10月、無血クーデターによってペルー共和国大統領となり、最終的には1975年8月、部下だったフランシスコ・モラレス・ベルムーデスによる無血クーデターによってその座を追われた人物だ。 

もちろんそうしたことのすべては、日本人駐在員家庭の暮らす地区からはだいぶ離れたリマ市中心街で起こっていたことだ。大人たちは多少なりとも不安を抱えていただだろうが、幼児である私はなにも感じていなかったと思う。ただ、海岸線の崖から崩れ落ちて道路に転がっている岩石や崩壊したトンネル、あるいは真っ二つにヒビが入ったビルのフロアに立って視線を上げると、はるか彼方に小さく空が見えるといった風景に、どういうわけかフェティッシュな興奮を感じていただけだった。それでも、「クーデター」という言葉の奇妙な響きに惹きつけられたことは思い出せるので、ベラムーデスの政権奪取について話す大人たちの会話は、耳に入っていたのだろう。

いきなり個人的な記憶からはじめてしまったのは、頭の中でばらばらに浮かんでいた断片的な疑問や情報や情景に、この映画がようやく太い文脈を通してくれたように感じられたからなのであった。

まず本作は前半の40分ほどを費やして、ペルーという国の近現代史を辿り直す。少数の白人支配層と大多数を占めるそれ以外の人種(先住民、黒人、混血など)によって構成されている社会構造、大土地所有制、強制奉仕労働といった、問題の背景がわかりやすく説き明かされていくのだ。1960年代に入るとアンデス高地では農民先住民の蜂起が起こるなど“革命”の気運が高まり、中道右派の大統領だったベラウンデも改革に着手するが、遅遅としてそれが進まない。その状況に業を煮やし、“国難を救う”ためにクーデターを起こしたのが、当時陸軍総司令官の地位にあったベラスコだったというわけだ。

ラテンアメリカにおいて一般的な反動的軍事政権とは異なり、ベラスコ体制は自ら“革命政府”を名乗り、強引かつ急速に改革を押し進める。アメリカ資本系の石油会社を国有化し、第三世界主義を標榜することでバランスを取りつつ東側諸国との外交を樹立、そして1969年には農地改革法を公布したのだ。結果からいえばこの“ペルー革命”もまた挫折し、のちにセンデロ・ルミノソなどによる凄惨な武装活動を招くことになる禍根を負の遺産として残したと見る向きもある(同時に、ベラスコによる農地改革があったからこそ、武装集団が農民先住民に浸透しきらなかったのだと考える人々もいる)。

だが、少なくともベラスコが実施した改革をきっかけとして、新しい社会集団や文化現象が生まれたということが、この映画では示される。たとえば価値の転倒が起こり、それまで単なる“田舎者”でしかなかった高地に住む農民先住民の文化や習俗が“カッコイイ”とされるようになった瞬間があったのだという。本作の中でも、白人の若者たちが先住民の民族衣装を着てリマを闊歩する姿が見られる。これがほぼ同時期に北米で発生していた“ヒッピー”の身なりに近似していることに気づいて軽い衝撃を受け、これは同時代の若者の潮流として単に同期していたということなのか、あるいは “ヒッピー”たちが生ぬるく思い描いていた価値や理想が、この地では武力と権威主義によって現実化しかけていたということなのだろうか、などと考えてみたくもなった。

ところでこの映画では、退屈な教育映画のスタイルが採られているわけではない。ベラスコから政権を奪ったベルムーデス本人や、土地選挙運動の伝説的な指導者だったウーゴ・ブランコといった生き証人たちの言葉に加えて、過去のペルー映画を自在に引用しながら歴史が語りおこされていくのだ。つまりは、ペルーの歴史とともにペルー映画史の片鱗にも触れられるのである。しかも、それがどれも魅力的な作品に見えるのだが、本編を観たことのあるものがほとんどないことにも愕然とさせられる。受け手であるこちらの感度の鈍さや視野の狭さのためとはいえ、幼年期を過ごした土地で進行していた事態も、そこで作られていた映画も、私にとっては不可視どころか存在してすらしていなかったことを改めて思い知らされるからだ。ここでまたしても脱線をするならば、1980年代後半を日本の高校生として過ごし私は、いわゆる“発展途上国からの帰国子女”として肩身の狭い思いをしながら、それでもバルガス=ジョサをはじめとするラテンアメリカ文学に開眼し、読みふけった。そうしながら、ペルーという国についていかなる知識も持ち合わせず、ただ“後進国”だからという理由だけで嘲りの目を向けてきた級友たちに対して密かに復讐を実行しているような小気味良さを感じていたわけだが、こうしてこの映画を観た今となっては、私が持っていたペルーに関する知識の量もまた、その“無知蒙昧”な級友たちよりどれほどましだったのかと首をかしげざるを得ないことも記しておかねばならない(しかも、ガルシア・マルケスではなくジョサからラテンアメリカ文学に入ったというところに、小さなプライドを持つという高校生らしいせせこましさ…!)。フランク・ザッパが自伝に書きつけたとおり、「愚かしさにはそれなりの可愛げがあるけれど、無知に魅力なんか全然ない」(『フランク・ザッパ自伝』/茂木健訳/河出書房新社刊)し、魅力がないどころか悪そのものですらあることが多いと、今では考えているからだ。

さて、評価も定まらなければ結論も出ていない歴史的な出来事を大きな文脈の中で俯瞰してみせようとするドキュメンタリー作品の必然として、本作もまた結末はやや生煮えの感がある。だが、そのはっきりしないぬかるみのようなものの中にこそ、いまだ汲み尽くされていないこの国の歴史の持つ可能性がひそんでいるのではないか、と考えさせるだけの強度が備わっていることはまったくもって否定できないし、これだけの情報量を111分に封じ込めた作り手の手際と腕力には、深い感銘を受けざるを得ないのだ。

ところでベラスコ失脚直前にはどんなことが起こっていたのだろう? とこの原稿を書きながらもう一度調べて(検索して)みた。すると、もともと低迷していたペルー経済は1973年のオイルショックによってさらに悪化し、地震までのあいだには民衆による抗議行動が活発化していたことがわかった。1975年2月には警察がストライキに入ったことを契機として崩壊に向かった治安(ちなみにこの混乱の背後には、CIAおよびAPRA党ことアメリカ革命人民同盟の暗躍があった、ともされている)を回復するために軍隊が投入され、最終的には1000人以上の死者を出す。しかも1973年に病に倒れたベラスコは右脚を切断していて、その頃はもはや精神的にも安定していなかったらしい。こうして見てみると、1974年の大地震は、さまざまな次元で一触即発の状態まで緊張が高まっていたところに火を点けた、きわめて象徴的な出来事だったのではないかという気がしてくるが、この瞬間のことを描いたフィクション作品を読みたく/観たくなった。おそらくは単に私が知らないというだけのことで、興味深い小説や映画がすでに生み出されているに違いない。

公開情報

2024年4月27日(土)〜新宿K’s cinemaほか全国順次公開
©2019 Autocinema