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ルパート・グールド『ジュディ 虹の彼方に』

文=

updated 03.04.2020

書籍の企画を立てる時、プロとしての覚悟が中途半端な私の最初に考えることは、もちろん〝この著者に書いてもらいたい〟なのだが、その次に考えるのは〝この著者はめんどくさい人かな?〟だったりする。この二つは不可分で、〝書いてもらいたい〟が〝めんどくさい〟を大幅に上回りそうな人とは、ぜったいに仕事をしたくない。多少上回りそうな場合には、その人の生み出すものの質と、めんどくささを天秤にかけることになる。この見極めを誤り、作業がはじまってから深く悔やむことになることもままあるのだが。

もちろん読者としては、圧倒的に面白い作品を書いてくれる人の性格がひどくても関係ないと考えている。でも、その作品が生み出されるために我が身を削りたいとは思わない。そういう意味で、「自分はほんとうの意味でのプロではないな」と考えているし、身を削るプロの人たちには深い敬意を抱いている。たとえそういうプロたちを突き動かしている動機が、純粋に経済的なものだったり組織の論理だったとしても、個々の彼らがいたおかげで読める本はたくさんあるのだから、その点は揺るがない。

この映画で描かれる晩年のジュディ・ガーランド(ルネー・ゼルウィガー)の姿を見ていると、そんなことを考えてしまう。現場に時間通り姿を現すかどうか、現したとして使いものになる状態なのかどうかもわからないような相手とは、ぜったいに仕事をしたくないと思うのが自然だろう。年端もいかない子どもたちを連れ回し、その夜の宿にも事欠くような人間は、いうまでもなく親として失格以前の存在だ。半端なプロ編集者たる私ならば、こういう著者に関わるはめになったら、「かってに道ばたで野垂れ死ぬがいい」と頭の中で発語しながらどうにかこうにか仕事をやっつけ、笑顔で立ち去るに違いない。実際、そうやってジュディを見捨てた人間が山ほどいたということだ。

だがしかし、本作は実に巧みに、幼い頃のジュディが受けていた扱いを垣間見せていく。巨大な体軀の映画プロデューサー、ルイス・B・メイヤーが大人の論理を体現し、怯える少女に優しく囁きかけるのだ。「おまえくらいの容姿の女の子はいくらでもいるぞ。もっと美しい子だってそこらへんに掃いて捨てるほどいる。だがその子たちは、たちまちのうちに結婚し子どもを産み、生活の中で醜くなりはてていく。おまえもそうなりたいのかい?」と。あるいは芸人一家だったジュディの原家族に言及しながら、「あの肥だめに、ほんとうに戻りたいのかい?」と。もちろんそう問いかけられれば、居場所のない少女は「良い子にして言うことを聞きます」と答えるほかない。そうして大人はほくそ笑み、大金を投じた撮影をつつがなく進行させる。

ひとたびその道に乗ってしまえば、もう下りられない。少女は食事を制限され、〝やせ薬〟としてアンフェタミンを与えられ、不眠を訴えれば睡眠薬を、気分が落ち込む時には昂揚させる薬物を、といったぐあいに厳しいコントロールを受けながら成長する。これでまともな精神のバランスを備えた大人に育つわけがないということが、我々にも了解される。

ただし、そうした大人たちの非道に憤りをおぼえさせるための了解ではない。こういう風に育ち、生きて来た。不幸かもしれないがこれがわたしの人生なのだという醒めた視点が、〝現在時〟の混沌の中で見失われるということがないのである。めちゃくちゃな〝現在〟の中に幼少期の〝事情〟を差し挟むタイミングと量とトーンが見事というほかない。これが少しでも度を越せば、ヒロイン自身にそのつもりがなくても〝錯乱の言いわけ〟にしか見えなくなっていただろう。そうなっていたら、「精神病患者の事情など知りたくもない」という嫌悪がわき起こっていたはずだ。

加えて、はた迷惑な振る舞いを繰り返すジュディを控えめに支えるアシスタントをはじめとする周囲の人間たちへも、公平な視線が向けられる。決して、〝天才を理解できず、その破滅を加速させた凡人たち〟という扱いではない。そもそも、〝悪い大人〟であるメイヤーらが彼女の〝子ども時代〟を破壊しなければ、ジュディ・ガーランドは存在しなかったのかもしれないという点すらが、度外視されていないのだ。

つまりは、「こういう人が近くにいたらほんとに迷惑だなあ」から、「回復してなにもかもうまくいくといいなあ」にいたるまで、矛盾した感情をすべて等価に抱えた上で、ジュディの突き進む真っ暗な必敗の道行が、どうか無意味なものに終わりませんように、と祈るような気持ちにさせられるのである。

もちろん後世の観客である我々にとって、それが無意味でなかったことはわかっている。だが、まさにその道を突き進んでいたジュディ本人にもそのことが伝わっていたら、という感情移入が強烈に立ちあがる。そしてこの作品が答えるのは、その点なのだ。その点において、ジュディ・ガーランドという特異な存在が、我々の胸を切実に撃つ普遍的な人間となる。

*ルネー・ゼルウィガー: 本作の日本配給においては〝レネー・ゼルウィガー〟と表記されているが、「ルネー」もしくは「ルネイ」の方が実際の発音に近いという筆者の判断により、ここでは「ルネー」と表記した。

公開情報

3月6日(金)より公開
© Pathé Productions Limited and British Broadcasting Corporation 2019
配給:ギャガ
公式サイト:gaga.ne.jp/judy