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変わるほかない側の

キム・ドヨン『82年生まれ、キム・ジヨン』

文=

updated 10.14.2020

女性囚人を収容する〈軽警備連邦刑務所〉を舞台としたドラマ、『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』(2013〜2019年)の中で、折に触れて思い出すエピソードがある。それはいわゆる〝セクハラ事案〟を扱ったものだ。

ある時、若い女性が看守として雇用される。だがしばらく勤務したのち、その職務には向いていないと判断された彼女は解雇される。判断を下したのは刑務所の責任者である独身中年男なのだが、当初、彼はこの新人にかなり強く心を惹かれていた。そしてその感情が成就しないことと、解雇のタイミングは重なっていた。もちろん本人は、「それとこれとは別」と考えている。ドラマの視聴者としても、たしかに彼女はこの職場に向いていないのだろうという印象を得た。しかしまた同時に、オヤジの恋心が破れたことと、解雇とがまったく無関係ではないこともたしかなように見えた。やがてこの話をすっかり忘れた頃になって、この元新人看守が、元上司たる中年男を〝セクハラ〟で告発する。

男は狼狽する。たしかに恋心は抱いていた。失恋もした。でも解雇とは関係ない。でも「イヤな思いをさせたのなら、謝罪したい」と考える。たいていの男は、まずそう考えるだろう。「悪気はなかった」とわかってもらいたい一心だ。しかし、〝謝罪〟など〝加害者〟が身を守るための方便に過ぎない。告発者にそう批判されれば、返す言葉もない。視聴者としては、彼が悪い男でないことはわかっているし、恋心が本気だったことも知っている。だがしかし、そんなことは〝被害者〟の知ったことではない。むしろ本気だったからこそたちが悪い。それはそのとおりなのだけれど、でも……というふうに堂々巡りが続く。

では、「被害者がそう訴えているのだから、それは〝セクハラ〟で間違いないのだ」とだれもが受けとめれば、話は簡単なのだろうか? 実はこうした〝事案〟の発生する現場に居あわせた経験から言わせてもらえば、起こった出来事が一つで、その内容について当事者同士およびその場にいた者の全員がほぼ同意していたところで、〝発生した被害〟の修復や解決にはなにひとつ寄与しない場合もあるのだ。単純に言って、〝加害者〟のほうは、「あっちがそう言ってるんだから、そういうことなんでしょ。それでいいよ」というぐあいに距離を置きやすくなるからだ。それは解釈の問題だから自分とは関係ないというわけだ。

おそらくは、そこにこそ問題の核心があるのではないかという気がする。たった一つの客観的な真実や正解を求める姿勢そのものに誤りがある、というような。そしてこう記すと、「あなたは男性だから、そうやって傍観者でいられる」と批判されるのだろうが、これにも反論できない。そのとおりだからだ。

 

さて、この映画『82年生まれ、キム・ジヨン』は、〝男性優位社会〟の中で一人の女性が生きる毎日を、きわめて繊細かつ堂々とした手つきでつまびらかにしていく。いわゆる告発調で、あれこれと〝問題点〟を観客に投げつける種類の作品ではない。つまりここでは、「じゃあどうすればいいの?」という問いを立て、それに対する安易な回答を用意するということはおこなわれないのだ。

ヒロインであるキム・ジヨン(チョン・ユミ)をゆっくりと、だが確実に押し潰していく社会のありかたが誤っていることには、だれもが同意するはずだ。だがそれを描き出す過程で加害者を特定すれば、物語としてわかりやすく腑に落ちるだろう。だがそれでは、その人間を断罪する物語にしかならない。射られた矢が観客にまで届くことはなく、むしろジヨンを苦しめる社会の構造を守り固めるものにしかならない。

ジヨンは、〝専業主婦〟として家事をこなしながら一人娘を育てている。傍目からすると、〝しあわせを絵に描いたような姿〟だ。だが、子どもを連れて街に出ると白い目で見られるし、夫の実家では使用人扱い。かつてあれほど熱心に取り組み、能力を認められつつあった職場も離れて久しいし、どうしても気持ちが満たされない。じゃあ、何でもいいから仕事をすればいいのだろうか? 気づかないうちにジヨンの心はすり減っていく。

 

その姿を見ている夫デヒョン(コン・ユ)も、冷血漢ではない。「女は黙って子育てをして家庭を守っていればいい」と考えてはおらず、「妻がラクになるのなら、家事など休めばいい」と思っている。「重荷になるなら自分の実家を訪れなくてもいい」とも提案する。もちろん、この姿勢こそがジヨンを追いつめることには気づいていない。「きみのためになるのなら〜してもいい」という語法そのものが、妻を苛む。夫が〝やさしさ〟を見せれば見せるほど、〝おかしい〟のは自分の側という思いがますますつのるからだ。

それでも彼なりに(ということは、〝男性優位社会〟における男性としての視野の狭さの中において、ということなのだが)、妻を救い出す道を必死で探していることも間違いない。だからそんな二人を眺めている観客としては、「そんなひどいダンナとは離婚すればいいじゃん」という話にはならない。こうして、われわれも否応なく社会と自分自身のあり方について考えはじめるというわけだ。

実際、本作の物語が巧みなのは、ジヨンが〝憑依〟という〝症状〟を呈する点だ。ストレスに追いつめられて人格が豹変し、本音が出るというのではない。ジヨンを見つめる第三者が彼女に取り憑き、彼女自身(ないし近しい女性)が追いつめられている様子を見かねて言葉によるある種の介入をおこなうのだ。これによって、〝当事者だけが被害を訴えてうるさく泣きわめく〟という図式を解体することに成功している。つまり、告発を一方的に聞かせるという構造を見事に回避しながら、〝真実の声〟を響かせるのである。しかもそこでは時制が重層化され、過去から堆積してきた声も表出する。

 

しかし、「じゃあどうするのがいいの?」という問いは残る。もちろんこれに対する答えは決まっていて、社会が変わるほかないのだ。どのように変わるのかといえば、まずは中年男性が変わるほかはない。われわれのようなオヤジ全員が息苦しさを感じるようになってはじめて、社会が変化のとばぐちに立つ。

中年男は全員、自分が言葉を発したり行動を起こしたりする前に、かならずその背後にあるメカニズムを再検討する。この作業をストレスと感じれば感じるほど、自分は〝本質のところで間違っている〟と考えるべきなのだ。優等生的な回答で身を守りたいわけではない。でも、必要な過程なのだから仕方がない。実際これは、「1+1は?」と問われて、「わかりません」という〝正解〟を答えられるところまで行け、ということなのだ。

そういうわけで、息が苦しくて仕方なくなったオヤジどもは、「そろそろ〝ジェントルメンズ・クラブ〟のような場が必要なんじゃないか。どんなに〝ひどいこと〟を言っても許されるような集まりが」などと口走りはじめるわけだが、そう感じているうちは、まだまだ道のりは長い。

ところで、この映画は、「女性の敵は女性」式の紋切り型にも陥っていないことを付け加えておきたい。ほかの女性の立場に思いがいたらない女性も登場するが、見知らぬ女性同士の無言の連帯が実現する場面もあり、そういう瞬間は実に小気味良い。

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配給:クロックワークス
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