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”あともう少しだけ様子を見よう”

クリスチャン・タフドルップ『胸騒ぎ』

文=

updated 05.09.2024

本作の英題は『Speak No Evil』、デンマーク語の原題は『Gæsterne』という。前者はいわゆる「見ざる言わざる聞かざる」の「言わざる」にあたる。「悪いことには目を閉ざし、口にしない」くらいのニュアンスだろう。後者の意味は「ゲストたち」とシンプルでストレートだが、この映画の物語を踏まえると、ゲストを迎える側(つまり主人公ではない側)に視点が置かれているようでやや意外でもある。しかしどちらが、あるいはだれがどういうゲストなのか、と考えはじめると興味深いひねりが感じられてくる。とはいえ、内容を鑑みれば『胸騒ぎ』という邦題こそが、この映画に最もふさわしいタイトルではないだろうか。英題を敷衍すれば「いやな予感(胸騒ぎ)に蓋をする」ともなるわけで。

思えば、人はいつでもいやな予感やいやなかんじに蓋をして生きている。そうすることで毎日をつつがなく生きていられるとすら言えるだろう。明日大地震で文明が滅亡するという無根拠な予感にとらわれ、それに蓋をすることができなければ、日常生活は破綻する(場合によっては、精神病の診断をくだされることもあり得る)。だがそこまで規模の大きな胸騒ぎではなく、なんとなく今日は地下鉄に乗りたくない、なんとなく今日は会社に行きたくない、なんとなくあの人に会いたくない、という程度のものならどうだろう? こういう場合、「この程度の小さな胸騒ぎなら従っておこう」となるだろうか? 特に組織や仕事、おおざっぱに言って社会のルールに従って生きていると、「こんな小さな胸騒ぎは無視するほかない」となるのではないだろうか。

この力学は、ハラスメントの現場でも発生している。しかも、上司と部下、発注者と受注者といったように明確な権力構造がある場合よりも、そうではない曖昧な人間関係の中にいるときのほうが、強く人を縛りつけるのではないだろうか。たとえばある程度の親しさにあると考えていた相手に向けられる言葉がいつのまにか冗談の境界線をはっきりと越え、ハラスメントの域に入っていた、しかもそれが継続的におこなわれているというような事例だ。たいていの場合は不意打ちだし、反応するよりも前に話題が移っていく。そもそもその場の雰囲気を壊す無粋なことをしたくないとも感じるから、毎度、「この人がそんなこと言うはずないし、気のせい(悪く受け取りすぎ)だろう」「間違えて口を滑らせただけだろう。完璧な人間などいないのだから」「この人にはこういう面があるけど、それ以外はいい人だから」と自分の中に生じた不快感に蓋をしてしまう。しかも、「あの人にこんなことを言われた」と別の人間に話したとしても、「いやなら行かなければ/つき合わなければいい」と忠告されるのがおちで、いやなかんじだけが何重にも堆積していく。そういう現象だ。

こういう“小さな悪”は組織の論理によって生成されたものですらなく、おそらくはあらかじめ人類の体内にあり、それゆえ社会全体に偏在しているのだろう。しかも一つひとつがいわゆる“凡庸な悪”などというものをはるかに超えた強度を持っていて、ひとたび凝縮されるようなことがあれば、すぐにでも大虐殺のような事態が発生するに違いないという触感がある。実際に現場を目撃したこともあるのだが、こうした悪がその場にいる人から人へといともたやすく感染し根付いていく、あるいはその人間の中にあらかじめ存在していた悪を芽吹かせていく様子には、それこそ凡百のホラー映画では太刀打ちできない気味の悪さがあった。

ところでものの本に拠れば、セキュリティという観点からは、たとえば毎日行き慣れている場所でなんとなくいやなかんじがした場合には、素直にその場を立ち去るのが正しい反応らしい。それは、たとえば自宅に何者かが潜んでいるような場合に、家の中に生じた微細な物理的な変化(ものの位置が少しずれた、など)を無意識のうちに感じ取っていることがあるからなのだそうだ。これは上述のような、日常生活で剝き出しになる悪の話とは多少次元が異なるものの、いずれにせよ、さまざまな状況下で、自分の胸騒ぎに素直に耳を傾けられる人間がどれほどいるだろうか。本作で語られるのは、そういう物語だ。

陽のあふれるイタリアでヴァカンスを過ごしている子連れのデンマーク人一家が、おなじ年頃の子どもを連れてやって来ているオランダ人一家と出会い、親しくなる。旅の楽しい思い出を胸に帰国した一家のもとに、しばらくしてオランダから一枚の絵葉書が届く。自宅に遊びにこないかとの誘いだ。二人ともその申し出には喜ぶが、実際に出かけるかどうかという話になると、妻のルイーセ(スィセル・スィーム・コク)はなんとなく気が乗らない。一週末とはいえ他人の家に泊まるのは苦痛だという思いはあるが、実のところ理由ははっきりしない。一方で夫のビャアン(モルテン・ブリアン)は、せっかくの誘いを無下にするのは悪いと感じている。そんなすてきな誘に乗らないのはもったいない、と背中を押す友人たちもいて、結局二人は娘のアウネス(リーヴァ・フォシュベリ)を連れて出発する。

もちろん、これが誤った選択であることをわれわれ観客はその時点で承知している。実際、招かれた先の家は緑豊かな森林地帯にあり、休日を過ごすにはうってつけのようでもあるが、一方で人里離れた薄気味悪さもある。しかも到着早々、ルイーセはいやな思いをする。だが、すぐに文句を言いはじめるわけにはいかない。こうして、週末だけのことなのだからここはがまんしておこう、気のせいかもしれないからあと少しだけ様子を見よう、というふうに際限のない撤退がはじまる。

以前、国民的なテレビアニメのディレクターを務めたこともあるという人物に、脚本というのは「ああ、そっちに行っちゃだめなのに!」と観客に思わせたら勝ちなのだ、という話を聞かされたことがある。仕事人として尊敬を向けたい相手ではなかったが、これだけはそのとおりと感じた。そんなことを思い出したのは、この『胸騒ぎ』という映画がそれだけでできているからだ。われわれは最初から最後までスクリーンを睨みつけたまま、「もう気づけよ」「もうここまでだろう」「そんなこと気にするな」「いいかげん心の声に従えよ!」と拳を握り締めながら歯ぎしりしどおしになるのである。

そしてこういう場合、主人公たちの選択と行動に説得力がなければ、この人たちはただのバカということになってしまい、ただのバカの行動を眺める映画ほどつらいものもない。ところが本作はまったくそうではない。ルイーセとビャアンがそっちを選ぶのは無理もない、と常に感じさせられ、だからこそラストにいたるまで緊張が途切れない。終盤にいたると、「もういいから、結論はわかってるから、いっそひと思いにやってしまってくれ」と懇願したい気持ちにすらなる。

一つ付け加えておくと、物語の展開からミヒャエル・ハネケの作品を思い浮かべる向きもあるようだが、私見ではまったく異なる。なぜなら本作には、剝き出しの悪意を浴びせてやろうという意志が感じられないからだ。ハネケの映画にある、今度はどうやって悪意を表出させてやろうかと舌なめずりするようなところはいっさいない。ここには、ただ素直に思考を展開していったら悪に行き当たった、あるいは、悪について誠実に考えていったらこういう物語になった、という手触りしかないのだ。だからこそ、本作のほうが度外れているとも言えるだろう。

ところで、大島渚はその場で怒る訓練をしていたのだという。私自身、そうすべきかもしれないと三十代の頃からずっと考えてきた。しかし、その場で怒らなかったからこそうまくいったということも多々ある。いや、事後的にそう思いたいというだけのことなのだろうか。第一、中年男性としてすぐに怒っていてははた迷惑だ。ならば、せめて自分や身近な人間の胸騒ぎには耳を傾け、すぐに立ち去ったり針路を変えたりできるようにだけはしておこうと心に誓った。

公開情報

5月10日(金) 新宿シネマカリテほか全国公開
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