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死という空虚な一点

ドミニク・モル『12日の殺人』

文=

updated 03.14.2024

死が訪れた瞬間の話を当人から聞くことは金輪際ないがゆえに、死とは謎そのものであり続ける。このあたりまえかつ月並みな事実は、当然ながら頭では理解できているわけだが、実際に死を目の当たりにすると、謎が謎のままであることがどうしても腑に落ちない時期が続く。あまつさえ、死の瞬間にいたる時間の流れを数日遡り、「あぶない、はやく知らせなきゃ!」と考えて夜中にハッと目覚めたりもする。もう何年も前から闘病していることを知っていて、こちら側もずいぶん前からその瞬間に備えて気持ちを整えてきていたような人間に死が訪れた場合でもそうなのだから、これが暴力によって不条理にもたらされた死の場合はどうなのだろうと考えると気が遠くなる。本作『12日の殺人』では、そういう死の謎に向き合うことを日常業務として生きている人々の姿が描き出される。

ある夜、スキー場や原子力発電所などで知られるグルノーブルの近郊に位置する(とはいえ、山間の道路で1時間強の距離はある)人口1万にも満たない小さな町サン=ジャン=ド=モーリエンヌで、若い女性クララ(ルーラ・コットン=フラピエ)が殺害される。友人宅でのパーティーをあとにし、ひと気のない住宅街の路上で親友にメッセージを送った直後、何者かにガソリンをかけられたうえで炎を放たれたのだ。

この事件の捜査を指揮するヨアン(バスティアン・ブイヨン)らが聞き込みをはじめると、クララはいわゆる“恋多き女性”であったことが判明し、それとともにさまざまな男性が捜査線上に浮上しはじめる。みなそれぞれに動機を持っていそうな“いかにも”な男たちばかりで、“突破口”と思われる手がかりも繰り返し出現するのだが、そのたびに否定されていく。しかも、被害者の人間関係を粘り強く調べあげていくというセオリーどおりの捜査活動が、どうしても死屍に鞭打つ行為とならざるを得ず、クララの親友ナニー(ポーリーヌ・セリエ)はそのことについてヨアンに疑問と怒りをぶつける。こうして、捜査官たちの胸中にも割り切れない気持ちが否応なく沈殿していく。

謎であると同時に悪のなされた瞬間でもある死という空虚な一点に向かって、強烈な力で吸い寄せられる捜査官たちは、核心を目にしたと思いながらもぎりぎりのところで触れられないというきりきり舞いを強いられる。しかも、彼らが日々向き合わねばならない死は一つだけではないし、暴力も一つだけではない。その背後には、法の網にはかからないものの、多種多様な悪も存在する。中にはそうした宙づりの状態に耐えきれず、“直接行動”に出る捜査官も現れる。そしてそれを観ているわれわれの側も、これがジャンルものの映画なら法律など無視し、たとえ相手が犯人でなかったとしても、それが悪をなしていると思われる人間であれば、最短距離で“正義”を実現させてやるのにと歯ぎしりをしたくなる。だがひたすらそれをしないのが、この映画の力なのだ。

すべての捜査官が自分にとっての“忘れられない事件”を抱えている、というのは、警察ものの物語でよく耳にする言葉だが、本作の主人公ヨアンの中では、この事件がその位置を占めはじめる。だがそれでも、というよりも、執着すればするほど覚醒するとでも言いたくなるような冷静さを保ちながら、ヨアンは捜査をやめない。その姿勢と、新人捜査官のナディア(ムーア・スアレム)、新任の予審判事(アヌーク・グランベール)という結果的にヨアンの側に立つ二人の女性の存在だけが、この物語の救いとなるだろう。

さらに言えば、彼の内側で渦巻く激情を解き放つ行動として、無人のヴェロドローム(自転車競技場)でただひたすら自転車を漕ぎ続けるシーンが提示されるのだが、それがラストにいたって、たとえばアッバス・キアロスタミの『そして人生はつづく』(1992年)を思い出させる飛翔ぶりをふと見せるところに、じんわりと胸を打たれる。ヨアンの姿勢をそのまま体現したような、誠実で地道でしかも緊張感の途切れない作品だった。

 

公開情報

2024年3月15日(金)新宿武蔵野館、 ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー!
©2022 - Haut et Court - Versus Production - Auvergne-Rhône-Alpes Cinéma
[メイン写真:Fanny de Gouville]