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肉体をもった“故郷”

セリーヌ・ソン『パスト ライブス/再会』

文=

updated 04.07.2024

「あの時にあっちを選んでいたらどうなっていたかな」と思い描いてみたくなる瞬間というのは、だれにでも訪れる。しかしたいていの場合はひとしきり想像を拡げたあとで、「いや、あちらに行かなかったからこそ今があるわけで、こちらを選んで良かったのだ」と自分を納得させることになる。その過程で、「もしそちらに進んでいたらここまで来られなかったはず」とひやりとすることも大いにあるだろう。

選ばなかった分岐点の先(にあるもう一つの現在時)が現実になることは、金輪際ない。それにゆえにわれわれはひととき、その先に広がるファンタジー空間に心地良く身をゆだねることができる。考えても意味がないとわかっていても、ふと油断した折にこうした想像が起動してしまうのはそのためで、これを恋愛関係に当てはめた場合の危うさもそこにある。いわゆる“ストーカー的妄想”とほぼ表裏一体の関係にあるこの想像力を刺激することで、たとえばリチャード・リンクレイター『ビフォア・サンセット』(2004年)のように、分岐点から流れた時間を少しだけ巻き戻すことで、多少むりやりであったとしても現在時を選択し直してみるという物語が強い魅力を放つことは言うまでもない。

では、この映画もそうしたファンタジーの類型に収まるのかと思いきや、実のところそうではなく、“ストーカー的妄想”の真逆とも言える厳しさを持っていた。

まず出発点に、主人公のノラ(グレタ・リー)が(ということはこの映画を“私小説” 的に作りあげた監督のセリーヌ・ソンが)、12歳の時に韓国を離れてカナダに移住したのは、彼女自身の選択ではなかった、ということがある。両親の選択をいわば事後的になぞるほかなかったという事実は、劇中ことさらに意識化される要素ではないし、被害者感覚の表出もない。だがそれゆえにこそ、この作品の重要な基部を成している。なぜなら、ノラの現在時にまでいたる時間の流れは、すべてその一回の選択によって生成されたものとも言えるからだ。

移住とは、海外赴任のように故国の文化を背負ったまま、“現地の日本人社会”という、あるの“飛び地”の中で暮らすこととは本質的に異なる。むろん、一度は故国を捨ててみたものの、出ていった先で成功を収めることができなかったのでしかたなく“帰郷”するということはあるだろう。机上の空論かもしれないが、むしろそちらのほうがいっそすっきりした気持ちになれるのかもしれないとも思えたりする。難しいのは、故国にいたら味わわなかったであろうと感じるような種類の労苦を乗り越えた先に広がっている“今の生活”が“そこそこ”でしかない場合のほうではないだろうか。移住して「良かった」とも「悪かった」ともはっきりとは言えない、それこそ「良かった」と自分に言い聞かせるほかないような現在時を生きていることに、ある日ふと気づく。しかもよく考えてみると、そもそも移住というのは自分の選択ではなかった、と二重に気づいてしまうようなことが起こった時の苦しさは、想像を越える。

ノラは、「ノーベル文学賞を獲る」から「ピュリッツァー賞を獲る」へと、人生を重ねるとともに夢の微調整を続けている。これが後退や自己欺瞞の過程であるとはとうてい言えないが、意地の悪い見方をすれば、もしかするとそれは彼女がまだ30代という“過程”の時間にいるからなのかもしれず、この先どこまで調整が必要になるのかはわからない、とは言えるだろう。そして調整を積み重ねた先で、出発点となった選択を自分自身がしていなかったかもしれないことに少しでも思いがいたれば、時間を巻き戻すことへの引力は抗いがたいほどのものになるのではないだろうか。そうなれば、「調整の連続が人生なのであって、選択できなかったものや到達できなかったものを切り捨てることが大人になることなのだ」、あるいは「現在時をどこまで肯定できるのかが成熟の証なのだ」などというというまやかしは意味をほとんど失うはずだ。

ノラが韓国を離れる前の12歳の頃に初恋の人だったヘソン(ユ・テオ)は、彼女が24歳になるまでのあいだに、ほとんど記憶の彼方に追いやられた存在となっている。ところがふとオンライン上で再会し、しばらくはそのまま濃密な時間を過ごす。だがその時点においてノラは、実際には顔を合わせないことを選択する。そして24年ぶりにヘソンと顔を合わせた36歳のノラはすでに結婚していて、私生活においても仕事の場においても、時間を巻き戻し選択をしなおしたいと感じる理由を持っていない。夫のアーサー(ジョン・マガロ)は、初恋の人と“運命的な再会”をする妻を見守りながら感じる自らの複雑な気持ちを、理性と愛から抑え込むことのできる聡明な人物だし、劇作家としてのノラの仕事も起動に乗りはじめているからだ。

この時ヘソンは、肉体をもった“故郷”そのものとしてノラの前に立ち現れる。ノラは、その存在全体から醸し出されるものに強烈な懐かしさをかきたてられはするだろう。しかし24年を異郷で過ごすうちに、故郷のほうが半ば以上異郷の地と化しているノラにとって、そこに“帰郷”するという選択はもはや意味を持たない。どことなくどんくさい装いで所在なく待ち合わせ場所に立つヘソンの姿を見たわれわれが、いささかの哀れみすらおぼえるのは、もちろん、その事実をノラに半歩先んじて感じ取っているからにほかならない。

言い換えると、自分自身の選択であろうがなかろうが、もはや移住の前の時点まで時間を巻き戻すことは不可能であるし無意味でもあることを、現在時において確認する必要だけはノラの側にもあった、ということなのだろう。そこまで24年のあいだに会うことを選択しなかったことによって流れてきたここまでの時間すべてを、改めて自らの手で選択しなおす。そうすることで、現在時全体を肯定する一歩を新たに踏み出す。紋切り型を使えば、“故郷”を自らの意志で選択し直したということなるだろう。この映画は、そのたった1つのアクションに向かって収斂していくのである。

ところで、ついにニューヨークにやって来たヘソンが案内されるありきたりな観光地の数々が、あたりまえではないどこか凄みのある美しさをたたえ、見慣れたと思っていた場所が異なった相貌を見せることも付け加えておきたい。これもまた、時間を巻き戻さないためにどうしても必要な強度だったに違いない。

公開情報

TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開中
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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