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『寝ても覚めても』
柴崎友香

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updated 11.02.2010

あたりまえではない世界の中に、すっぽりと入りこむ 文=川本ケン 自分の感覚に対してほんとうに正直になってみると、世界はまったくあたりまえにはできていないことに気づく。 壁面が透明なガラスになったエレベーターに乗ってみると、つい一瞬前まで見慣れたサイズだった人間たちがあっという間にヘンな昆虫のような形になっているし、周囲のビルもまたそびえていたのがいつの間にか同じ高さになり、次に気づくとひしゃげた箱になっている。さっき家を出た気がするのに、今はオフィスにいるし、早く行きたいと思っていた旅行も気づくと終わっている。高校を卒業したばかりのようなつもりでいるのに、いつのまにか40歳になっていたり……。 そのことに気づくと、毎日の時間は非常に豊かなもので充たされるが、同時にこの世界は、ひどくおそろしいものが溢れ出て来かねない場所でもあることに気づくことになる。 こういう素直な感覚が極限まで解放されたところに統合失調症があるのだろうし、幼児期を脱した後我々は日々、そういった剥き出しの感覚に対して、「これは視点移動の結果だ」とか「これは時間が経過したにすぎない」といった具合に論理的連続性を補ったり、単純に感覚を閉ざしたりすることで、「あたりまえの世界」が壊れないようにして生きている。 この小説に描かれているのは、そういう意味で危ういまでに解放された知覚の世界なのである、ということがまず言える。 主人公の女の子はいつも「すごいなあ」という風に面白がりながら世界を眺めている。 街を歩けばヘンな人がいるし、どこでも可笑しい会話が耳に入ってくる。わりとしょっちゅう、ヒトに話したらびっくりされたり信じてもらえなかったりするようなことを目撃したり体験したりするが、それは要するに、奇跡そのものでもあるこの世界を、自分の乱暴な視線や勝手な想いによって壊してしまわないよう、細心の注意を払いながら、いわばこわごわ生きているということもある。 自分の感覚に素直であるが故に、ヒロインは、22歳の時に運命的な出会いをする。そう思いこんでいるから「運命的」なのではない。その男=麦が悦びと虞(おそれ)の結節点、世界の奇跡的なあり方そのものとして彼女の前に結像するから、「運命的」なのである。 悦びの方に振れても、虞の方に振れても、世界が壊れてしまうことを彼女は知っている。だから彼女は、そんな世界=麦を写真に収めることもできないままただ見つめ、ときおり触れて存在を確かめてみることしかできない。 しばらくして、現れた時と同じ必然に従って麦は姿を消し、あっという間に10年近くが過ぎる。 やがて、消えた麦そっくりの、もうひとりの男が現れる。だが彼は、世界の奇跡的な結節点ではない。ヒロインはもはや、彼の中に世界のあたりまえでない豊かさを見いだすことができないでいる、と言い換えた方がわかりやすいかもしれない。 麦の消失によって、彼女にとっての世界とはすでに、「こうあらねばならない」というかたちに凝固しつつあるのだ。だから第二の男は、ただ単にひとつの空虚な点として、彼女の視線を吸い寄せるに過ぎない。 一方で、あたりまえでない世界そのものであった麦もまた、空虚な記号=人気俳優/モデルとして、彼女の視線の中に再登場する。ヒロインの知覚は、これらふたつの真空の間で激しく揺さぶられ、振幅を繰り返す。病の淵へと限りなく近づくと言ってしまってもよい。 ラストに至ってようやく彼女は、自らもまた世界そのものの一部であるという事実を了解するだろう。その時、世界は再びあたりまえではない輝きを取り戻す。 どれだけ感覚を解放し、世界の豊かな相貌を享受していても、そのままでは、世界はいずれ「こうあらねばらなない」「こうあってほしい」という形に堕ち、輝きは永久に失われてしまうのだ。 だからこそ、たとえそれが世界への慈しみが故のものであっても、虞の被膜を突き抜け、幾重にも重なった襞をかき分け、すべてをぐるりとひっくり返し、世界の中にすっぽりと入らなければならない。もちろん、その果てに立ち現れる世界は、きわめて耐え難くおそろしいものをはらんでいる。だが、それこそが真にあるがままの世界なのだ。なにしろ、世界はまったくあたりまえにできていないのだから。 ヒロインとこの小説が、そういう場所に至ることができたという事実に、読者は深く撃たれ動揺することになるだろう。 『寝ても覚めても』 柴崎友香/河出書房新社 【amazon情報】 www.amazon.co.jp/dp/4309020054

初出

2010.11.02 08:00 | BOOKS