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エンキ・ビラル『モンスター』

清々しい覚醒

文=

updated 01.18.2012

そこには擬音が書き込まれていない。描線と着色がシステマティックに行われている様子はなく、一コマ一コマが「絵画作品」のようにして成立している。当然ながらマンガの文法から遠く離れ、かといって映画のストーリーボードのように物語が語られるわけではない。物語の側でも、視点は常に移動して行き、主観的な知覚と客観的な現実との境目が次第に溶解してゆく。

だが、難解な作品ということではない。

ユーゴスラヴィア内戦から911以降の戦争までを踏まえて描き出されている2027年の世界では、宗教的原理主義の究極的な形である急進的一神教運動が激化する一方で、精巧な合成クローンたちの存在により各個人の肉体がかつてのようなかけがえの無さを持たなくなっている。

その中を生きる主人公ナイキは、生後18日目に見たものを思い出せるという驚異的な記憶を持っている。すなわち、彼にとってはすべての瞬間がかけがえのないものとして堆積しているのである。ところが、テロリスト=アーティストのウォーホールによるテロ=作品に攪乱され、自らの記憶や行動をバラバラと散逸させてゆくことになる。同時に複数の場所に存在し、時に殺害され時に視覚としての他者をすべて失い、それでも前進を止めない。

その前進は当初、生後18日目の風景を共にした「仲間」である一日年下のアミールと八日年下のレイラを守ることに向かうが、やがてそれは、散逸した自らの存在を収斂させることと同じ意味を持ちはじめる。

分裂しながらも境界線を曖昧化させ、鮮明な輪郭を身につけるかと思えば同時に拡散してゆくこの作品はそういうわけで、我々の生きる世界についての怜悧な解釈であり、その未来についての鮮明な予見でもあることを最初から隠しもしないし、恐れもしない。

あとは、第一ページ目からゆっくりと、この作品のニオイと手触りと音と光と色彩の中に惑溺すれば良いだけのこと。ラストの覚醒は、あまりにも清々しい。

『モンスター』
エンキ・ビラル/大西愛子訳/飛鳥新社

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http://www.amazon.co.jp/dp/4864101264

初出

2012.01.18 13:30 | BOOKS