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西郡友典
『青い空の日に』

世界の肯定という感覚

文=

updated 01.28.2013

大雑把に言って、写真集にはいくつかの種類がある。

ひとつは、「何を写したのか」が重要なもの。たとえばグラビアアイドル写真集とか、ある種のコンセプトによって写すものや写し方を決め込んだものなんかはここに入る。乱暴に言ってしまえば企画ものということになるのかもしれない。

もうひとつは、「何が写っているのか」がキモなもの。こちらを説明するのは少し難しいが、「何を写したのか」を買う人は、収められた写真一枚いちまいに写されているものが欲しく、「何が写っているのか」を買う人はその何かが写っている写真が欲しくて手に入れる。

さらにもうひとつは、もはや何が写っていても写されていても関係なく、写真そのものが重要なもの。この場合、見る側に写真の歴史とか写真の見方といったリテラシーを要求する。

さて、この『青い空の日に』がこの三つのうちどこに入っているのかと言えば、間違いなく二番目だろう。では「何が写っているのか」? それはタイトルにあるとおり。ただし、「青い空」を写したのではない。また、「青い空の日」というものを写したのでもない。「青い空の日に」写ったものを集め、構成したのがこの写真集なのだ。写真の連なりによって、「青い空の日に」+動詞という構文が作られていると言ってもいいかもしれない。

ただし、「写ったもの」である以上、写している主体の側が主語ではない。主格は、写ったものの側にある。それは朝靄として我々の目の前に現れ、白馬や凧や雲海や犬や猫や桜や日射しそのものだったり、プールに浮かぶ少女ふたりだったり、やがては水平線の上を行く太陽そのものだったりしながら、常に移動しつづける。見つめる主体が移動してゆくのではない。繰り返しになるが、主格は写ったものの側である以上、正しくは憑依ということになるのだろう。

我々はページを繰ることで、次から次へと憑依を繰り返しながら、この世界の中を移動していく。そしてこの移動が我々の中にじわりと湧出させるのは、世界の肯定という感覚である。

今この瞬間にも永久に失われておかしくはないというような切迫感と、あるいはすべてが失われてしまった未来から視線を投げかけているというような喪失感によって、写真のあらゆる細部がふるえていると言い換えても良い。ただ単に「カワイイ」と括られかねないモチーフの数々が、青い空の下にあるこの世界の、かけがえのない“きらめき”そのものに見えるのは、そういうわけなのだ。

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『青い空の日に』
西郡友典/パイインターナショナル
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初出

2013.01.28 09:30 | BOOKS