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ロバート・カークマン
『ウォーキング・デッド』

われわれは、真の大災厄後にどのような生を生きるのか?

文=

updated 10.19.2011

3.11から一ヵ月くらいの麻痺した時間の中で、むずむずと見直したくなったフィクション作品がいくつかある。映画で言えばフランク・ダラボン『ミスト』とスティーヴン・スピルバーグ『宇宙戦争』だし、読み物で言えばフィリップ・K・ディック『ドクター・ブラッドマネー』や『最後から二番目の真実』あたり、そしてコミックではこの『ウォーキング・デッド』だった。これらの作品に接したいと感じたというより、ほかのフィクションすべてがバカバカしく無効なものに感じられたという方が正確だろう。特に『ウォーキング・デッド』のように、大災厄の後を生きることになる人間たちがどのように変化してゆくのか、もしくは、文明というものによってかろうじて「人間らしさ」の外枠を保っている我々が、文明崩壊後にどのような本性をさらけだすことになるのか、ということについて直截かつ精密に考察している作品は少ない。

まず電気や水道といったインフラは消え去り、食料の供給は止まる。災厄直後は、通りを掠奪者たちが暴れまわっていることだろうし、それが収まる頃にはゾンビが人肉をもとめて徘徊し始めている。世界の根本的な変化に対応し、建設的な行動を選択する者もいるだろうし、刻一刻と悪化してゆく状況を否認し内的混乱の中で命を失う者もいるだろう。そしてなによりも、建設的な行動の定義を巡って、人間同士の激しい対立が生じるはずなのだ。たとえば、己と自らのグループの人命を最優先するとして、ほかの者の犠牲はどこまで許されるのか。法の消滅したとき、人間はどんなルールに従うことになるのか。あるいは、どんなルールを設定するべきなのか。

要するに、そういった問題全てに直面し、一介の「田舎の警察官」であるところの主人公リック・グライムズがどのような決断を下し、どのような結果を招き、どのようにしてそれを引き請けてゆくのか、というのがこの本の物語、ということになる。

2003年当時、原著ペーパーバック版第1巻を読んだ時には、ただ生真面目なだけの、つまりジョージ・A・ロメロによって再発明されたゾンビものの枠組みに忠実なだけの、とはいえ「ただの真似っこ」と退けてしまきれない、奇妙な熱気を持った作品と感じたに過ぎなかった。同時に、そういう生真面目なロメロ直系の物語を、どんな意志を持って始めたのかということ自体に興味をそそられたに過ぎなかった。作者ロバート・カークマンによる序文にある、この作品は「けっして終わることのないゾンビ映画」なのだという宣言の持つ意味も、その段階では実感としては伝わってきていなかった。

ところが、第2巻から第3巻に到達する頃には、「エンディングの先」を描き続けるこの物語の目指すところが急速に明らかとなる。しかもこの作品の持つ力は、どれだけアクチュアルなテーマを取り込めるかということですらなく、それらアクチュアルな問題点自体が陳腐なものとなってしまった世界において、人間がどのような存在となっていくのか、というところに焦点が移ってゆく点にある。なにしろ、社会は崩壊し、剥き出しの人間だけが残るのだから。

だいたい第6巻くらいまでの間にすべての問題点は提示され、第11巻で発生するある出来事において、リックたちの行動はひとつの境界を超える。しかもそうした物語が、高度なエンターテイメント性を失うことなく語られるのであるから、奇跡に近い作品とすら言えるのではないだろうか。

さて、本書には原著第1巻から第3巻までが収められている。上述の通り、離陸には若干時間がかかるように感じられるかも知れない。日本のマンガの持つ、映画で言えばハリウッド映画的な語りの速度と透明さを備えているわけでもない。だが読み始めて見れば、そんなことすべてを打ち負かす高い中毒性を持っていることに気づくだろう。しかも旅はまだ、始まったばかりなのだ。

『ウォーキング・デッド』
ロバート・カークマン作/風間賢二訳/飛鳥新社

□ オフィシャルサイト
http://www.asukashinsha.jp/walking-dead/
□ amazon
http://www.amazon.co.jp/dp/4864101140

初出

2011.10.19 11:00 | BOOKS