withnail_main

“愛”と“自由”の終わり

ブルース・ロンビンソン『ウィズネイルと僕』

文=

updated 05.01.2014

時は1969年秋、場所はロンドンのカムデン・タウン。主人公の「僕」とその同居人ウィズネイルは、小汚いアパートでぐだぐだの生活を送っている。共に売れない/まだ売れていない俳優で、朝から酒を浴び、四六時中戯言をはき続けている。ドタバタと落ち着かない二人の様子は、倦怠の淵でただ単に自堕落さに淫しているわけではなく、気が狂いそうなほどの停滞から逃れ出ようと彼らがあがき続けていることを示している。

特に、「僕」の焦燥は限界に達しようとしていて、灰色の中に閉塞されたロンドンから一瞬でも脱出しようと、ウィズネイルを焚きつける。その焦燥こそがこの映画を動かす必然性であり、変化の時を迎えていた時代そのものと、主人公たちの青年期の終わりとをシンクロさせるものにほかならない。

いうまでもなく1969年というのは、その年の夏にシャロン・テイトが惨殺され、年末にはローリング・ストーンズのライヴ会場でヘルズ・エンジェルズのメンバーが黒人青年を殺害し、ほんのひとときだけ花開いた“愛と自由”の時代が一挙に終焉を迎えた年でもある。しかも、近年公開された『ロマン・ポランスキー 初めての告白』によれば、ポランスキー自身がテイト殺害の報を伝えられたのはロンドン市内のホテルの一室だったというから、主人公たちは彼と同じ空気を吸っていたことになる。だが、もちろんこの映画の中でそうした事件が言及されることはない。

withnail_sub

ウィズネイルの叔父、モンティから別荘の鍵を借り受けた二人は、ボロ車を駆って田園地帯を走り抜ける。辿り着いた先の田舎は雨に濡れそぼり道は泥だらけ。素朴だが温かいご近所さんに迎え入れられることもなく、ロンドンでの生活と変わらない、問題を解決してゆくためのスラップスティックが刹那的に展開されてゆく。

だが二人の間には、最初から決定的な差異がある。それは、焦燥という点では通底している二人だが、ウィズネイルの方はこの自堕落さと職業俳優としての生活とが両立するものとほとんどやぶれかぶれな希いを抱いているようであり、「僕」の方はどうにかして生活に根本的な変化を導入しなければならないと感じているらしいということである。「僕」は時代と正しくシンクロし、ウィズネイルは必敗の戦いを挑んでいる。それ故にこの停滞の時間が実のところ彼らの人生における桃源郷であり、遠くない将来、彼らの歩む道は分岐し二度と交錯しないであろうことを冒頭からひしひしと感じながら、我々は彼らの最後の停滞につきあうのである。

彼らの一世代上にあたるモンティは、“クローゼット”から出ないまま生きてきた同性愛者であり、そういう意味では、停滞の中に沈潜したまま人生を送ってきた男であるともいえるだろう。映画の中ではコミカルな役柄として、ウィズネイルにそそのかされたという形で「僕」に迫るわけだが、それは実のところ、停滞の中に留まろうという、「僕」に向けられたウィズネイルの誘惑そのものでもあっただろう。

Photo84

いやむしろもっと直截に、ウィズネイルからの同性愛的告白の代弁者であったと見ても差し支えない。髪が長いだけで「ホモ」呼ばわりされたであろう時代背景を差し引いても、パブで突然彼らを「ホモ野郎」と罵り立てる男をはじめとして同性愛言及が奇妙に多いわりに、映画の中でウィズネイルと「僕」との関係性が明確化されることがない。裏返せば、そんなことは明確化するまでもないということにほかならないということになる。たとえそれが精神的なものに過ぎないとしても。

ラスト、別離の時を迎えたとき、「僕」は髪を切っている。そして、ワインをラッパ飲みするウィズネイルから、そのボトルを受け取ることはない(あまりに明白な精神分析的比喩ではないか)。愛を拒絶した「僕」がフレームアウトしてしまうと、ウィズネイルは、終わりを告げた時代の亡骸そのものと完全に合一化し、雨の中で徐々にその輪郭を薄れさせてゆくのだ。

withnail_image2highres

公開情報

5/3(土)〜5/31(土)吉祥寺バウスシアターにて“クロージング”ロードショー。全国順次公開!
©1986 Handmade Films (1985) Partnership