川﨑大助
『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』

揺らぎの小説

文=

updated 03.10.2011

意外にも、この本には対象との間にきわめて明確な距離がある。もちろんその距離とは批評性のことでもあり、本書を支える必然性のことでもある。だがいったい、当初は「音楽ライター」として接近しながら、そのうちに対象そのものの準構成員のような存在となっていた人間による文章として、それはどのようにして獲得され得たのだろうか。本書の原形となった『米国音楽』誌上での連載は(雑誌そのものと共に)05年から途切れたままだというから、それが書籍として成立するための「距離」を獲得するまでには5年あまりの時間が必要だったということにもなるのだろうが、そういった内的な醸成のようなものとは別の次元で、この作品は成立しているように感じられる。

なぜなら、その距離感は一定ではないし、所与のものでもないことは、読み始めてすぐに理解されるからである。ひとつの文章から次の文章に移るまでの間にも、大きな揺れ動きが見られる。佐藤伸治という巨大な欠落の中にそのまま吸い込まれかけては、どうにか体勢が立て直され、距離が再獲得される。しかもその揺らぎこそが、フィッシュマンズというバンドの音楽、あるいは佐藤伸治の紡ぎ出した言葉の持つ力に通底するものだということに、やがて我々は気づくことになるのである。

弱さと強さ、ルースさとタイトさ、ユーモアと絶望、希望と暗闇、好きと嫌い、カッコよさとみっともなさ、必要とムダ、気持ちよさと気味悪さ、つい個人史の中で語りたくなってしまうが、そうすることがどうしても恥ずかしい……。必ずしも対義語ではないものの間を揺れ動き、それを聴く我々の側もまた彼らの音楽との間揺れ動いてしまうというような種類の存在。

だから本書は、「揺れ」を定着させようという試みでもあるだろう。定着といっても、止めるのではない。むしろ振幅を最大化し、永久に「揺れ」を続かせようという、ほぼ徒労とも呼べる行為なのだ。徒労というのは、記録にも懐古にも奉仕していないことの証しでもある。それ故、本書は小説としての強度を獲得することになる。つまりこの本は、「対象との間に批評的な距離を保ちながら、ある時代を記録した」という作品ではなく、その距離の揺らぎそのものについての作品なのである。

要するに、あの時代を生きてしまった者もなにも怖れることなく手に取ればよいし、あの時代はおろかフィッシュマンズの音楽も知らないという者もまた、ただ巻を開き読み始めればよい。だれが読んだとしても、語り手「僕」を含め、ここには紛れもなく自律的な存在たちが息づき蠢いているのだから。そういう自律運動に触れるのが小説の醍醐味であるとするならば、本書は抜群に面白い小説ということになる。

『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』
川﨑大助/河出書房新社

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初出

2011.03.10 17:00 | BOOKS