戦場の持つ抗いがたい磁力についてはしばしば語られてきた。すぐに思い浮かぶのは、『地獄の黙示録』(79)のナレーション原稿に手を貸し、『フルメタル・ジャケット』(87)の脚本に参加したマイケル・ハーによるヴェトナム戦争従軍記『ディスパッチズ』で、そこでの戦場とは頭のおかしい連中の演じる不条理なスラップスティック・コメディだった。そういえば『地雷を踏んだらサヨウナラ』の一ノ瀬泰造も、生前にテレビ出演した際、あまりに戦場のことを楽しげに話しすぎて二度と呼ばれることがなかったと記していた気がする。開高健もまた、幼年時代にアメリカ軍の空襲を経験した世代であるにも関わらず戦場に惹き寄せられた作家のひとりだが、ヴェトナムで戯れに米兵のライフルを借りて構えてみたら、銃口の先に誰か現れないかなあという欲望が自然と身内に生まれるのを感じたと書いている。ひとを殺すのはあまりに簡単だ、と。
『アメリカン・スナイパー』の主人公は、タイトルどおり、アメリカ海軍特殊部隊(Navy SEALs)の実在した伝説的スナイパーである。伝説的というのは、「米軍史上最多」とされる160人を射殺したということで、彼は望んで四回戦地イラクに赴き、その度に死ぬことなく帰国した。
もちろんスナイパーであるかぎり、たとえ相手が女や子どもであっても、敵と判断された場合には躊躇なく撃ち殺さなければならない。映画では、そうした酷薄な殺しの積み重ねが主人公クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)の精神の上に重く堆積していったということと、それに対するカイルの対処法が、殺しの是非について深く思い悩まないという自己麻痺であったことも描かれている。
だがそれ以上に、激しい戦闘の最中であっても衛星電話をかけさえすれば本国の日常生活と直結することができるという、両極にあるはずの現実どうしがわずかな緩衝地帯もなく直截並置されているという、ある意味喜劇的な状況に生きることの困難が、カイルの心を蝕みかけていたことの方に物語の重点は置かれている。だから、カイルの“心”はなかなか帰国できなかった。「仲間を救い、国家に奉仕するため」というのが家族に対して彼の繰り返したお題目だが、“平和な日常”に戻っても、戦場での恐怖と興奮が一種の依存症として彼を捉えて離さなかったのである。
とはいうもののこの作品は、娯楽性を捨て去った文芸映画ではない。むしろ、戦争映画としての面白さに驚くのではないだろうか。なにしろ、カイルが米軍の伝説的スナイパーであるとすれば、敵側にも好敵手たる天才的スナイパー、ムスタファ(サミー・シーク)がいる。いかなる状況下でも冷静沈着に行動し、確実に米兵を仕留めるその姿はカッコよくすらある。クライマックスは当然、ふたりの一騎打ちになるわけだ。こうした戦争映画としての抜群のエンターテイメント性によって、われわれはカイルが抱えていたであろう戦場依存症の感覚を理解することになる。
つまりこの作品において、カイルにとっての戦場とは“ドラッグ”であり、キマっている最中の興奮状態はいいとしても、そこから醒めた後の虚脱状態は耐え難いという角度から、戦場ないし戦争の害悪が伝えられているということになるだろう。そして、なぜ彼が“ドラッグ”に手を出すようになったのか、どのようにして依存状態から抜け出したのかということも描かれる。
今までこうした視点を持つ戦争映画がなかったわけではないが、「戦争の悪」「戦場のヒロイズム」というどちらも同じくらいに陳腐なメッセージに淫することなく、戦場の磁力と破壊力を同時に伝えるというきわめて繊細な機能を持つことに成功した娯楽映画は、そうそうないだろう。
ちなみに、カイルの父親の虐待すれすれなマッチョ教育によって、腕っ節が強くいつでもカッコいい兄クリスの下、腕っ節の弱い弟ジェフ(キーア・オドネル)がいかにいじけて育っていったのかを示すことも忘れていない。ジェフは兄に憧れ自らも志願兵としてイラクに赴くのだが、「こんなところはクソだ」と吐き捨てて帰国する。しかし、弟は“負け犬”ではないのだ。“強さ”によって生き残った兄と違い、彼は“弱さ”によって生き延びた。“弱さ”によって、戦場の魔力に呪縛されなかった彼は、退屈な日常という煉獄を生きる“強さ”を持っているということか。兄クリスが身につけることのなかった能力である。
公開情報
(C) 2014 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC
新宿ピカデリー・丸の内ピカデリー他全国ロードショー公開中
オフィシャルサイト:http://www.americansniper.jp
配給:ワーナー・ブラザース映画