atouchofsin_main

「罪」と「邪悪」

ジャ・ジャンクー『罪の手ざわり』

文=

updated 05.27.2014

英題は「A Touch of Sin」。これが「Touch of Evil」であればオーソン・ウェルズ『黒い罠』なわけだが、「Sin」と「Evil」は違う。ここで描かれるのはあくまで「罪」の方であり、それが「邪悪」なものであるかどうかはまた別問題なのだ。

atouchofsin_sub03
この映画では、四つの事件が描かれる。それらが、「現代中国社会を象徴する」ものとして「社会の矛盾」を体現する出来事として選ばれているのは明らかで、それぞれ「不正に憤る孤独な中年男」、「暴力により貧しく退屈な生活を脱する出稼ぎ男」、「すべてを思い通りにしようとする金持ちに反撃を加える女」、「経済的にも感情的にも根を生やすことができないまま絶望の淵にいたる青年」といった具合に、彼らを「罪」へと駆り立てた「邪悪」の在処について観客が思いを巡らせざるを得ないような物語を語る。
「邪悪」の在処について思いを巡らせさせると書いたが、実のところ考えるまでもなく、この映画における彼ら「罪人」は「被害者」であり、「邪悪」は彼らの外側にある。最初から最後まで、その点がぼかされることはない。それ故、彼らの行使する暴力はある種のカタルシスをもたらす。つまりは、「武侠映画を思い起こさせる」と語る監督自身の言葉通り、これはきわめて単純明快に作られた娯楽映画なのだ。実際、特に猟銃を構えた「中年男」やナイフを手にした「女」は、武侠映画的な美意識の中で捉えられていることがストレートに伝わってくる。要するにカッコイイ。

atouchofsin_sub01
だからここには、現代文学的な不条理殺人はない。動機があり、行動がある。不条理な暴力として思わせぶりに描くこともできたはずの局面でも、不確定性はできる限り排除されている。ノワール的な倫理の超克も起こらない。唯一、「青年」のエピソードの末尾だけが、多少の曖昧さを残しているが、その行動に至る構造そのものに不明確なところはない。
かくて、「現代中国」を描きながら、この作品は娯楽映画としての普遍性を獲得する。「中国の現実」とやらに一切の関心や素養がなくても、機能する物語として撮り上げられているのである。しかし、この映画のカタルシスを伴う娯楽性は、表面的ではない思考を誘発するものではないという批判も成り立つだろう。それは映画としての幅を狭め、ある貧しさに至りかねない選択でもあるわけだ。だがこの選択をすることによって、剥き出しの「社会問題」にのみ依拠する種類の映画には辿り着けない観客にまで届く可能性が生まれるわけで、間違いであるとは決していえないないだろう。

atouchofsin_sub04

公開情報

5/31(土)より Bunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー
©2013 BANDAI VISUAL, BITTERS END, OFFICE KITANO