ごたつく男女関係ほどはたで見ていて面白いものはないけれど、うっかりすると感情移入が過ぎてイライラギリギリ余計なお世話に歯ぎしりするハメになったりもする。登場人物たちの愚かな行動を楽しく見守っているつもりが、いつのまにか彼らのバカさかげんに耐えきれなくなり、口出ししたい気持ちを抑えきれなくなっている。そんな危険がいつもつきまという。
『ヘウォンの恋愛日記』
『ソニはご機嫌ななめ』
だがこの二本の映画が行うのは、「はたで見ていて楽しい」という気分と、「なんでそんなことするの!?」といういらだちの中間地点に最初から最後まで留まりながらも、主人公たちの行動に感情を軽くくすぐられ続けるという奇跡なのである。
特別なことはなにも起こらない。そもそも、最初からなにも起こっていなかったのではないかとすら感じられるほどのあっけなさで、映画は展開される。審美的なカメラワークもない。ぎゅうとズームインしたり、するりとズームアウトしたり。会話がリズム良く切り替えされるなんていうこともない。特に、繰り返し現れる酒宴の場面では、観客はただひたすら“お誕生日席”から登場人物たちのやりとりを眺めることになるのだが、それだけでこともなげに映画が成立してしまっている。前作『3人のアンヌ』(12)以上に、見事な“一筆書き”なのだ。世界との間に一筆書きの距離感が確立された、とすらいってみたくなる。
『ヘウォンの恋愛日記』には、妻帯者でありながら教え子であるヒロイン(ヘウォン=チョン・ウンチェ)との関係を続ける教授が登場する。己の婚姻状況は棚に上げ、自分と別れていた時期にヘウォンが男子学生と付き合っていたことを知り、動揺するのみならず「肉体関係を持ったのか」と詰問し「あたりまえでしょ」と答えられて激昂する大馬鹿野郎である。もちろん、珍しいタイプの男ではない。
『ソニはご機嫌ななめ』には、別れた彼女であるソニ(チョン・ユミ)と偶然再会したために気持ちが再燃し抑えの効かなくなる“学生”、推薦状を求めて姿を現したソニにすっかり心を奪われる“教授”、前述の学生からその悩みを打ち明けられ「あんな女、かわいいか?」と反応したくせに、これまた偶然再会したソニとふたりで杯を重ねたとたんぞっこんになってしまう“先輩”が現れる。こういうのも、よく聞く話ではある。
もちろん、ヘウォン自身いつでもそんな大馬鹿野郎と別れられるはずなのに区切りを付けられない。ソニの方は、酒のせいなのかどうか、ゆきがかり上自分の方から三人の男それぞれに“粉をかける”ことになってしまう。
というあらすじだけを耳にすれば、ソニの優柔不断にいらつき、四角関係におちいる男三人のふがいなさを嘲笑し、ソニの“ビッチ”ぶりに腹が立つかも知れない。
しかしながら、映画を見るわれわれの感情がそこまで振り切れることはない。終始くすくす笑いながら、「まあ、そういうこともあるよね」といううっすらとした共感を維持しながら楽しく見守ることができるのだ。知り合いであるかのようにして主人公たちの話に耳を傾け、共に酔っ払い、しかも彼らの愚かさに歯ぎしりすることもない。ちょっと笑いはするけど、バカにしてるわけじゃない。バカにしてるわけじゃないけど、完全に異次元のドタバタが繰り広げられているわけでもない。いつわれわれの感情に触れてきてもおかしくない危うさがあるので、退屈させられることがない。
そういうわけで、当然のことながらこの映画を貫いているのは「善意の視線」ではない。すべての登場人物が矮小な愚かさをさらけ出しているのだから、そこにあるのが徹底した悪意の視線であることに異論はないだろう。だからといって、人間の愚かしさやせせこましさを暴き立てるたぐいのものではない。もしそうだったとしたら一筆書きの距離感が成立するはずもなく、善意の視線に貫かれていた場合と同じくらい退屈な映画になっていたにちがいない。
ところで『ヘウォンの恋愛日記』では、今語られていることが夢なのか現実なのか曖昧になるような編集がなされている。そのちょっとした“前衛性”がやや鼻につきもするが、実はここでは、そんなことはどうでもいいのだ。夢だろうが現実だろうが、起こったことは起こっている。それが世界のありようを変えるというような話ではない。ただたんに、映画を学ぶ学生であるヘウォンの持つ、そのように世界を見たいという欲望が、そういう形で映画に表出したということに過ぎない。だからわれわれは、彼女が酔っ払っている姿を眺める時と同じように、くすくす笑っていればいいのだ。とはいえ、そうした“仕掛け”すら放擲した『ソニはご機嫌ななめ』のいさぎよさは、さらに小気味良く感じられることだろう。
公開情報
8/15(土)よりシネマート新宿にて2作品同時ロードショー!
公式HP: http://www.bitters.co.jp/h_s/