たしかに、映画というのは本質的に“ごっこ遊び”だし、それがジャンルに寄り添うものであれば、二重の“ごっこ遊び”になる。だが“ごっこ遊び”にはいつでも必然性が必要だし、必然性があれば観客のエモーションは引きずられまくり、そこには現実と限りなく近い“体験”が立ち上がる。逆に必然性がなければ、“ごっこ遊び”はただ単に死ぬほど退屈なものとなる。
そして必然性とは、“ごっこ遊び”の技術があれば生まれてくるというものではない。テンションの高さだけでも生まれないし、真剣なだけでもダメなのだ。なにかの条件を満たせば生成されるというものではなく、映画に先んじてそこにあるものとしか言えない何かなのである。
中島哲也の映画には技術はあるが、それが決定的に欠けていると感じられてきた。だが、なぜだかこの作品にはあった。それはもう、どういうわけか、役所広司の顔を見ただけでわかる事実だった。これまで彼の出演してきた幾多のヤクザ映画の中ですらほとんど見たことのない荒み方をしている。リアルに、ということではない。役柄の結晶として荒んでいるということなのだが、その顔つきだけで十分なのだ。
“役者を追い詰める系”の監督として知られる中島哲也自身が、酩酊したまま怒鳴り散らし暴力を振るいまくる主人公藤島の人格の中に共鳴するモノを見いだしたのだとすら口にしたくなるほどの必然性が、そこにはある。加えて、この映画にはこれまで同様の高い技術がある。役者を映画に奉仕させるための演出力もある。ならば面白くならないわけがない。
ある日、ろくでなしの元刑事・藤島の娘が失踪する。高校生の娘・可奈子(小松菜奈)は、優秀な成績と端麗な容姿を兼ね備えた優等生で、いかなる問題も抱えていないはずだった。だが、別れた妻に呼び出されてその部屋に入ってみると、シャブ・キットやら不可解な写真やらが出てくる。そこから、藤島の破れかぶれな捜査がはじまる。一枚また一枚と娘の虚像が剥がされ、そのひとつひとつが父親である自身の薄汚れた生き様を糾弾するようにして、彼女の悪魔的な地金を露呈させてゆく。そこには暴力、殺人、覚醒剤、未成年売春、恐喝、洗脳、そのほかありとあらゆる悪徳が詰まっている。彼女はどこに消えたのか?
という物語に仕込まれた“謎”そのものは、ほぼどうでもいい。藤島がアホみたいに血まみれになり、文字通りボロ切れのようにすり切れ、それでもただひたすら暴れまくるその姿を見るのが楽しいのだ。哄笑に次ぐ哄笑で、血糊が飛び散り、肉が裂け、内蔵が抉られる。中島哲也の持てる技術のすべてがそのために投入されているのだが、かなり物語の核心に近い部分でさえ描写が甘すぎたり、戯画化されすぎていたり、単にくど過ぎたりと、コントロールを失っているのではないかと感じられる瞬間が何度もやってくる。もちろん、本人に訊けばそれも計算内と言うのだろうが、そんなこともどうでもいい。あきらかに、そういう映画の綻びと、ボコボコにされてゆく役所広司の肉体の綻びとは共鳴関係にあり、そこにこそ必然性が宿っているのだから。
だから、映画はなかなか終わらない。「もうわかったよ」という気持ちになってからも延々と続く。ラスト・ショットにふさわしい映像を何度も目にした後、「もういいかげんやめてくれ」と思い始めてだいぶ経った頃になってからようやく、ストップ・モーションによって映画は幕を閉じる。強制終了するほかなかったのだ。それが、監督中島哲也の地金ということになるだろう。ちょうど、可奈子の地金が悪そのものであったように。
公開情報
(C)2014 「渇き。」製作委員会
2014年6月27日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズほか 全国ロードショー