「ノアの方舟」と耳にして思い浮かぶ物語はどんなものだろうか。おそらく、神のお告げを聞いたひとりの老人が、ほかの人間たちにバカにされながらも方舟を作り上げ、大洪水を生き延びるというくらいのものだろう。カタルシスは、バカにした連中が全員水に呑み込まれてゆくというところにあったはずだ。スペクタクル的映像は容易に想像できるが、アロノフスキーがその物語のどこに、今語られるべき要素を見いだしたのかという疑問は解消されないままだった。
今となれば、ノア(ラッセル・クロウ)というのは強迫的な信念に取り憑かれた男であるわけで、それはたしかにアロノフスキー的主人公であることがわかる。そして実際にこの映画の物語は、妄念ギリギリのところにあるノアの信念を核に積み上がってゆく。ただしそれは、「洪水が来る」=「神のお告げを聞いた」という方の信念ではない。「人類は滅びるべきである」という確信の方なのだ。それは文字通り最後のひとりまでもこの地上から姿を消さなければならないという信念のことであり、ノアの家族は、最後の人類として子孫を残さず死んでゆかねばならないと彼は考えている。
もちろん、家族を愛するノアにとって、それは限りない苦痛を伴う葛藤となり、家族の側にすれば正気を失った横暴な父親が出現することになるだろう。この作品においては、この地点から、興味深い考察が導き出される。
神のお告げにより導き出された答え=「人類はすべて滅びなければならない」を現実のものとするためには、自らの愛する者たちをも死に導かなければならないという、個人を超越した“大いなる善”によって自らの感情を抑えつけるという典型的に男性的な論理と行動が、最終的には女性、すなわち妻(ジェニファー・コネリー)や義理の娘(エマ・ワトソン)の、ノアからしたら奸計とも裏切りとも呼ぶべき行動によって妨げられることになるのである。
彼女の行動に理屈はない。どれほど苦しくてもそれが神の望みなのであり、その望みが成就されなければ、方舟に乗ることなく死んでいった人間たちもまた救われない、という信念によって自らをギリギリの地点にまで追い詰め、血反吐を吐く思いをしながら全うしようとしている夫の任務を、妻の側は、「愛する子どもたちを滅ぼすなど耐えられない」という感情一本であっさりと台無しにしてみせる。
「ここまで黙って付き従ってきたのだから一度くらいわたしの望みを叶えるべきだ」と妻は訴える。その望みを叶えてしまったら、そこまで付き従ってきた夫の人生の意味そのものが、ということは妻のそれまでの人生の意味までもが完全に喪失してしまうという事実が、意味を持つことはない。
おそらくこれは、極めて普遍的な光景だろう。男がありとあらゆるものを犠牲にして築き上げてきた(と考えている)ものを、ほんのひと突きで瓦解させる女の物語……。男女関係あるいは夫婦関係における本質的な光景とすら言えるのかもしれない。なにしろ、「人類は女のせいでエデンを追われることになった」のだから。この映画でも、その風景は繰り返し描かれる。
さてここまでであれば、例えば『レスラー』における主人公の道行きと変わりはない。女たちの希いを退けて、滅びの道を突き進むという男のナルシシズム。だがこの映画においては、そこが転倒されるのだ。つまり、女性たちに敗北することこそが勝利であったという結論が提示される。そこに到達したという一点において、この物語は同時代における必然性を獲得することができた。では、敗北が勝利であるとしたら、その先にはどういう景色が拡がっているのか。そこが、今後アロノフスキーの探求すべき地平となるだろう。
公開情報
6月13日(金)全国ロードショー
Photo Credit: Niko Tavernise
© MMXIV Paramount Pictures Corporation and Regency Entertainment (USA), Inc. All Rights Reserved.