数年前、「大学卒業20周年同窓会」の案内が届き、好奇心のまま参加してみた。正直なところ、“まともな人生”を歩んでいるやつらがどれだけしみったれた顔をしているのか見てやろうといういやらしい下心がなかったとは言い切れない。昔は「老け顔」と呼ばれていたが、特にここ五年くらいはその年齢を通り越したのか「若い」と言われるようになっていたので、同級生たちが一般的な“中年”になっているとしたら、すこしは気分がいいかもしれないとも考えていた。
果たして、会場の学食に集まっていた連中の中に、人一倍だらしなく太り、頭ははげ上がり、汗だくで脂ぎっているという男はひとりも見当たらなかった。誰もがそこそこ身ぎれいで、特に男は当時とイメージの変わらない者が多かった。なによりも、会場に足を踏み入れた途端20年前の校内ヒエラルキーがよみがえるようで、人気者グループの発している歓声に気圧されながら、いまでもつきあいの続いている友人とふたり、ぱっとしない者同士で隅の方にたたずみ、ぼんやりと会場を観察して時間を過ごすハメになった。そのうち、ほとんど名前も忘れていた女性ふたり組に声をかけられ、いい歳をしてドギマギぎこちない受け答えをしてしまい、忘れて久しい「女子と話をするのが苦手」という感覚が戻ってきたのにも驚かされた。
よく考えてみると、人生で大成功を収めている者もどん底に沈んでいる者も、こんな集まりに顔を出すはずがないのだ。ここにいるのはハッキリと“その他おおぜい”であって、日本社会を構成する中核なのかどうか知らないが、要するに“そこそこ”以外のなにものでもない人生を歩んでいる連中であり、自分もまたその一員に過ぎなかった。いい歳をしていまだにそうではないと考えていた自分が恥ずかしく、あれから20年が過ぎたのになにも成していないと自覚した結果、その日を境に何度目かの“中年の危機”が訪れたというわけだ。おのれの思い上がりっぷりが、地団駄踏んでキリキリ舞いしたいくらいに小っ恥ずかしい。エイドリアン・トミネの『サマーブロンド』を読みながら真っ先に思い出したのは、そんなことだった。
いまここにはないあり得べき現実のかたちをぼんやりと未来に投影しながら、必死でそこに向けて手をのばすのでもなく、うっすらとした焦燥を常に感じながら毎日を過ごすのが“青春”のひとつの定義だとすれば、本書に収められている四本の短篇が描くのは、そういう青春を過ごしつつある主人公たちの姿である。
そして“中年の危機”というのが、青春期に思い描いていた“未来”がいまであることを自覚したときに起こる「こんなはずではなかった」という感覚だとして、それでもまだなお未来へと自らを投影しているならば、その人間は中年になってもまだ青春期を生きている。たとえば表題作「サマーブロンド」の主人公がそうだ。
年齢は明示されないが、顔のしわの具合からすると、若くても35は越えているだろう。週刊誌(おそらくはローカルなもの)の広告欄をレイアウトすることで地味に孤独に生活している。彼の住む部屋の隣に引っ越してきた男は一見学生風だが、ミュージシャンを自称し、女の子をとっかえひっかえ部屋に引き込んでいる。あまつさえ、主人公がひそかに惹かれているカード・ショップの売り子までがその男の部屋から出てくるのを目撃してしまう。しかも、街でその子を見かけ、ついよけいな忠告をしかけて気味悪がられるが、ほんとうのところ何をしたいのかは自分でもわかっていない。絶望的な中年だ。でも、わかると感じる。
“負け犬”の話ばかりではない。「別の顔をした僕」の主人公は、一作目が大成功を収めた若い小説家である。だが、ライターズ・ブロックにかかったまま二作目を書き出すことができないでいる。同居中のパートナーとの関係も停滞している。そこへ高校時代に憧れていた女性からのハガキが届き、つい彼女の実家へ向けて出発してしまう。男なら絶対そうするだろうと思う。
「バカンスはハワイへ」の主人公は、通販の電話オペレータをしている中国系の女性である。母親には「罪悪感」で責め立てられ、医大に入った妹には「『心配そうな』声」でイラつかされる。人との関わり方がわからず、怒りを腹の底に溜めたままひとりの生活を続けているが、ある日仕事をクビになる。時間を持てあました彼女は、ふと二回にある自宅の窓から見える角の公衆電話の番号をメモり、通りがかりのひとにいたずら電話をかけはじめる。たしかに、こんな妄想をしたことはある。
「爆破予告」の主人公は、16歳のカルチャー系高校生である。お約束通り、運動バカたちには「ゲイ」だとからかわれ続けている。興味を共有する親友はいるが、ふとしたきっかけで距離があく。それは主人公がつい犯してしまった裏切りのせいかもしれない。こういうことに関して、身に覚えのない人間がいるだろうか。
こんな具合に、停滞した毎日の中で、あり得べき未来に向けて、つい見当違いの方向に足を踏み出す人たちのお話が、見事に細やかな手つきで語られている。われわれは主人公同様、いつでもあさっての方向に向けてジャンプする危険を目の前にしているし、いまこの瞬間にも実際に跳んでいるかもしれないのだ。あさっての方向に足を踏み出したあと、大きなカタストロフィーがやってくるのかやってこないのか、その寸前で物語の幕は引かれる。それは見事な終え方で、残響はいつまでも続き、心の中で主人公たちはその後の毎日を生き続けることになる。
と書き付けてみて、自分で納得した。「自分は社会に適応できていない」と感じている人々が支持するたぐいの主題であることはたしかなのだが、それだけでは作品があまりに狭いことになってしまう。実際には、同じ種類の人間の姿を見ることで心が慰められるという次元ではなく、人間が否応なく侵し続けてゆく小さな過ち、しかもそれが過ちであることはだいぶあとになってから結果論でしかわからないという種類の行動の積み重ねが人生であることを明らかにするこれらの物語は、それによって青春ものを越えた普遍性に到達しているのではないか。
ならば、自分があさっての方向にジャンプしたのは20年前のことだったのか、10年前のことだったのか、などと考えてみる。詮無いことではあるが。
◎『サマーブロンド』(エイドリアン・トミネ/長澤あかね訳/国書刊行会)