イニャリトゥは、とにかく登場人物全員が大げさに深刻ぶった顔をして悩んでさえいれば“深遠”で“高尚”な映画ができあがると信じているようにしか見えないヤスさが我慢ならないという作り手のひとりだったわけだが、意外にもこの新作はおもしろかった。おもしろいというのは、深刻ぶった登場人物に深刻ぶった顔をして付き合わなければならないという種類の映画ではなく、深刻であるが故の可笑しさというものに素直に到達していたからである。
それはコメディとファンタジーという、通常“高尚”な文芸趣味には包摂されない要素を導入したおかげなのだが、それすらも考えてみれば出発点には、“高尚”なもののなかにあえて“俗”なジャンル要素を取り込んで、それでも“深遠”なものを作り上げてやろうという、きわめてイニャリトゥらしい狙いがあったのだろう。その意味で彼の持つ価値階層を微塵も揺るがさない試みではある。とはいえ、作り手の中にどれほどさもしい狙いがあったとしても、出来上がった映画が楽しめるのならもちろん何の問題もない。
[実存ドラマ+コメディ+ファンタジー]というわかりやすい方程式の中に、この物語における“虚実のあわい”を完全に身体化したマイケル・キートンという俳優と、特にアルフォンソ・クアロンと共に『トゥモロー・ワールド』(06)から『ゼロ・グラビティ』(13)にいたる体験そのものとしての映像表現を追求してきたエマヌエル・ルベスキによる撮影を投入できたことが決定的だった。それによって、イニャリトゥの狙いを越える映画が生成されたのだ。それはタイトルにあるとおり、奇跡に近い出来事と呼ぶことができるだろう。
主人公リーガン(マイケル・キートン)は、20年前に「バードマン」というスーパー・ヒーローを演じることでスターの地位を築いた男だが(ちょうどキートンがかつて「バットマン」を演じたように)、いまでも人々にとっては「バードマン」以外の何者でもない自分自身を再生させるため、監督兼主演としてブロードウェイの舞台に挑んでいる。その舞台が初日を迎えるまでの数日の物語が、切れ目なしのワン・ショットに見える撮影スタイルによって展開されてゆく、というのがこの映画である。
しかしながら、たとえばヒッチコックの『ロープ』(48)のように、劇中の時間経過と現実の時間経過が一致しているタイプの「疑似ワン・ショット」映画ではない。カメラは常に登場人物の誰かを追って浮遊し続けているが、シーンの間ではむしろ演劇的ともいえる場面転換がおこなわれ時空が飛躍する。結果として、皮膚に迫る臨場感でその場に居合わせているというよりも、幽霊となって登場人物たちのドタバタを見守り続けているという印象の方が強く残ることになる。そしてそれは、当人の“内なる声”としてリーガンにつきまとう「バードマン」の視点でもあるだろう。ということは、実のところ観客の視点は主人公の視点そのものとも重なっているのだ。
このようにして、さまざまな次元での“虚実のあわい”が内側に取り込まれることで、映画としての必然性と強度が上げってゆく。それはまず、主人公の「超能力」というかたちで物語の核に仕込まれている。リーガン本人は、「誰にも知られていない(ただし俳優の才能とは全く関係のない、つまり何の役にも立たない)特殊能力としての念力」を使えると認識しているが、映画の描写としては、ある瞬間には現実に、次の瞬間には彼の妄想ないし幻覚にしか見えないというかたちで、最後まで不確定性が保持される。リーガンは本当に「超能力」を持っているのかどうかという観客の内側での自問自答やサスペンスは、リーガン本人の抱える実存的な迷いと葛藤の振れ幅にぴたりと重なり、われわれのエモーションはいつのまにかこの映画に支配されてゆく。
「本物か偽物か」という素朴な問いは全編を貫いている。リーガンと娘(エマ・ストーン)の関係、共演する俳優マイク(エドワード・ノートン)の天才性、もっと一般的に俳優という仕事そのもの(演じるということ)、演劇評論家が口走る「映画俳優=ニセモノ/舞台俳優=ホンモノ」という図式、そしてもちろん舞台上での出来事の“真偽”などなど細部にいたるまで主題レベルを支配し、それが前述の「疑似ワン・ショット」の手法とあいまって、ラストのカタルシスが呼び込まれるのだ。
公開情報
© 2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.
4月10日(金)、TOHOシネマズ シャンテほか 全国ロードショータイトル
配給: 20世紀フォックス映画
公式サイト: http://www.foxmovies-jp.com/birdman/