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合致しない家族の時空

チャン・イーモウ『妻への家路』

文=

updated 03.03.2015

「右派」として逮捕された夫(チェン・ダオミン)が、「文化大革命」の終了した1977年、20年ぶりに妻(コン・リー)のもとへ帰る。だが、ひたすら夫を待ちわびていた妻は、夫をその人と認識することができない。「心因性記憶障害」と診断される彼女の記憶を蘇らせるため、夫と娘(チャン・ホゥイウエン)の努力がはじまる。そういうお話である。

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夫の逮捕にはもうひとつ因縁がある。それは、釈放の三年前に脱走しわが家に戻った彼を密告したのが、娘だったということである。三歳の時に別れて以来の彼女が父の姿を覚えているはずもなかったが、「右派の子」であるが故に情熱を傾けてきたバレエの主役に選ばれなかった彼女が、失意のあまり衝動的に採った選択であった。

娘はその時、怒りのあまり家族の記念写真すべてから、父の顔を切り取ってしまっていた。だから、写真を頼りに妻を説得することはできない。切り抜かれた写真は、ただちに「文革」後に粛正された「四人組」を想起させるだろう。つまり娘の手によって、夫ははじめから存在しない人間となったのである。

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妻はそんな娘を許すことができず、とうの昔にバレエをあきらめ工員として働いている彼女の現在を否定し、いまだに「踊っている」と信じ、しかも工員寮へと追いやることで彼女を視界から消している。

これを図式化するとこういうことになるだろう。娘は、父の姿を消去してまわることで、イメージ上彼を亡き者とした。妻もまた、「裏切り者」である娘を許せないが故に娘の現在を否定し、彼女を不在化している。それは自身が徹底的に過去に滞留することを意味し、そのせいで夫の現在(の姿)をも認識できないという場所から動けなくなっている。そして夫は、すべては自らの不在が招いた事態と認識し家族の現在を回復したいと願うのだが、すでに不在の時間の方が長くなってしまった今、それは回復ではなく新たな現実を構築することにほかならない。かくて、試行錯誤がはじまるのである。それは同時に、娘との関係を築くための道程とも重なるだろう。

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やがて、唯一妻が認識できるのは言葉としての夫の姿であることに気づいた彼は、一計を案じる。収容所生活の間に書きため、結局投函されることのなかった大量の手紙を、妻に届けるのである。それを読み聞かせることによって、過去から現在に向かって徐々に時間を辿り直すことで、二人の時間軸を同期させようという試みだ。妻は喜ぶが、空間は一致しながらも時間は一致しないという二人の姿の悲劇性が、より深まることになる。

なるほど、これならば論理的にも合っているし、この試みの果てに二人の、いや家族三人の時空は合致するのだろうと観客は安心して眺めるのではないだろうか。ねじれの在処はわかった。この調子でそれをほどいてゆけば大団円に到達するはずだ、と。あにはからんや、事態はそう簡単ではない。

惹句には「スピルバーグが号泣!」とあるし、どれだけべたべたなメロドラマを見せられるのかとある程度覚悟してスクリーンに向かったのだが、実は極めて上品な映画なのであった。

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公開情報

(C) 2014, Le Vision Pictures Co.,Ltd. All Rights Reserved
3月6日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開
公式サイト cominghome.gaga.ne.jp