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突き破るモノ

ジャック・オディアール『ディーパンの闘い』

文=

updated 02.11.2016

90年代半ばのことだが、当時住んでいた南仏の小さな町には有色人種の入店を拒むところが一軒だけあった。もちろん日本人以外の有色人種ということであって、“礼儀正しい日本人”は例外だった。だからといって日本人がどこでも敬意を払われていたということではない。バブル期直後のことだから、むしろ事態がその逆だったことは周知のとおりである。

一方で、特別に感じのよい商店や飲食店は、その街に限らずいくつもあった。思い出してみると、たいていの場合それはいわゆる“アラブ人”の店だった。ほぼ同じ時期のロンドンでは、たとえばパキスタン人といえば感じの悪いひとたちという印象があったので、これは興味深いことだと思った。

内戦下のスリランカを脱し、難民として郊外の低所得者層向け団地の管理人となる本作の主人公ディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)のまえにも、おなじような感じのよい人たちが現れる。黒人、マグレブ系など人種はさまざまだが、フランス社会の周縁部のさらに周縁部に生きる仲間同士のよしみ、ということであるのは伝わってくる。

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団地にもまた階層化された社会構造が存在している。この映画に登場する団地の場合は、ひとつのギャング組織がそこを拠点とし、“経済活動”を営んでいる。住民は、彼らの制定したルールを逸脱さえしなければ、“持ちつ持たれつ”の関係によって“助けの手”を差し伸べられるだろう。

従来の意味でいう血縁、地縁とは無関係の、人工的なコミュニティがそこにはあるわけだ。そしてディーパンはその人工コミュニティの中で、妻役のヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)、娘役のイラヤル(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)と共に、人工家族を作り上げようと努める。完全なる他人同士の三人は、たまたま“海外渡航ブローカー”の事務所で行き会ったにすぎない。

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それは歴史上様々な国籍、人種の人々が行き交う場所であったフランスのミニチュア版そのものでもあるだろう。理解し合えるはずのない者同士がたまたま生活空間を共有し、あるひとつの社会を構成する。だからその社会もまたその外側の社会と相似形のゆがみを抱えていて、搾取の構造からは逃れられず、暴力の噴出も避けられない。

しかしながらこの映画が面白いのは、“移民社会”についての議論の材料を提供するからではない。社会構造のゆがみが物語の核となり、観客のエモーションを主人公にシンクロさせるというかたちで映画が展開されるわけではないのだ。世界はどこまでも断片的なまま、われわれの視界を覆いつづける。ところが終盤にいたって突如ディーパンは行動に移り、視覚的にはさらなる不透明さを引き寄せつつジャンル映画の光と興奮を引き寄せる。“移民社会”についてのリアルなコメンタリーという枠組みを突き破り、われわれを撃つのはその瞬間である。

その行動はいかなる解決も結論も回答も導き出さない。ただ、映像と音のフィティシスト、オディアールの悦びがダイレクトに伝わってくる。「全編“裏の意味”だけでできた“メタ映画”じゃないか」というような意味のことを、ある映画監督の友人が語っていた。そのとおり。だが、そんなふうに“知的”な映画が、ゾワリと鳥肌を立てさせる身体のようなものを獲得することが奇跡だとも感じた。

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公開情報

© 2015 - WHY NOT PRODUCTIONS - PAGE 114 - FRANCE 2 CINEMA - PHOTO: PAUL ARNAUD
2月12日(金)、TOHOシネマズ シャンテ ほか全国公開
配給:ロングライド