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悪意も憎悪もなく

ファレリー兄弟『帰ってきたMr.ダマー バカMAX!』

文=

updated 11.19.2015

いつのまにか、『ジム・キャリーはMr.ダマー』(94)から20年が過ぎていた。主人公のロイド(ジム・キャリー)とハリー(ジェフ・ダニエルズ)もまた20年分の時間を生きていた。もちろん彼らの、とくにロイドの20年は、考えられるかぎり最もアホな過ごされ方をしていた。なにしろ、親友のハリーでさえ仰天するくらいのアホさなのだ。

というお話は冒頭の数分で終わり、今回は、ハリーが新しい腎臓を探す旅となる。死の病をかかえたハリーは、自分に娘がいたことを偶然知り、その子から腎移植を受けるべく、ロイドと共に出発するのである。

最終的に迎えるハッピー・エンディングもアホなら、最初から最後まで一分の隙もなくアホと下品と不見識が詰め込まれた映画である。だが、昨今の主流である『ハング・オーバー!』(14)系のコメディーとはまったく味わいがちがう。

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『ハング・オーバー!』の主人公たちも、もちろんバカである。自分たちのバカさかげんが引き起こした混沌を、翌日になって収拾して回るというお話なわけで、定義上彼らはバカなのだが、ハリーとロイドのようなアホではない。

危険な紋切り型を使ってしまえば、ハリーとロイドは無垢であるが故の“白痴”である(“白痴”だから無垢なのではない)。だから、まともな社会生活は送れない。女性への興味は痛いほどあるが、その興味を解消する方法を知らないから性的体験への道も開かれない。永久に小学六年生のままなのだ。

一方『ハング・オーバー!』のバカたちは、ただたんに真っ当な大人たちがハメをはずしてバカになったというに過ぎない。だから彼らは、ザック・ガリフィアナキス演じるところの“引きこもり”の存在と薬物によってようやくバカになれる。普通の社会人たるわれわれも、社会不適合者にハメられてエライ目に遭う彼らの姿を見て、一抹の同情とともに心おきなく笑うことができる。酔いが醒めれば酷い二日酔いが待っているが、日常生活は戻ってくるのだから。

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だがロイドとハリーに救いはない。彼らが過ごしているのは二日酔いの日々ではない。醒めればまともな人間に戻れるというわけではないのだ。それは不幸なことだし、陰惨な映画とすらいえるだろう。

そういう意味では、彼らの姿を見て笑うたびに、ちょっとだけ居心地の悪さを感じる。ただし、彼ら自身は微塵も不幸を感じていない。だから彼らは不幸ではないし、それ故に彼らに悪意はない。そこにわれわれは惹き寄せられる。

彼らはどこまでも古典的な意味でのラディカルな“白痴”であり続け、それは悪意なく社会を脱臼させ続ける。『ハング・オーバー!』の連中は社会の構造を強化するが、ロイドとハリーは無効化する。そのときにもし悪意や復讐心があったなら、ふたりと社会との接点には憎しみが生じているだろう。だがそれがないのだから、ただ社会はカックンという音と共にバラけるほかない。

『ハング・オーバー!』的なものに慣れた目で見ると、アクが弱いとすら感じるかもしれない。もしかすると、居心地の悪さに気づかないことすらあるかもしれない。であるとすれば、そこにこそ、この20年の間に変化を遂げた社会の正体があるのではないだろうか。

20年前、彼らはただのバカとして観客を大笑いさせた。今や彼らは、幽霊のように漂うほかないのかもしれない。運が良ければ低いクスクス笑いを引き起こしながら……。ここのところ、ファレリー兄弟の作品に接する頻度そのものが下がっていることを考え合わせると、これは杞憂ではないのかも知れないとうっすら感じている。だからいまは、ふたりを眺めてニヤニヤしていたい。

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公開情報

(C)2014 DDTo Finance, LLC
11月20日(金)、TOHOシネマズ 六本木ヒルズほか全国ロードショー
提供:日活 配給:東京テアトル
公式サイト:bakamax.com