Elephant Song/Melenny

演技の演技

シャルル・ビメナ『エレファント・ソング』

文=

updated 06.04.2015

60年代の精神病院。ひとりの医師の姿が見えない。失踪したのではとの懸念が院内に拡がり、隔離病棟から青年患者マイケル(グザヴィエ・ドラン)が呼び出される。彼その事情を知っていると目されていた。

この段になっても警察への通報がなされないのには、理由があった。病院は性的虐待のスキャンダルにさらされたばかりで、ようやくその傷が癒えかけたところだったのだ。

そういった事情もあり、院長であるグリーン(ブルース・グリーンウッド)は、自ら聴取にあたろうとしている。看護師長ピーターソン(キャサリン・キーナー)はその状況を案じ、マイケルは心理操作に長けた油断ならない患者だと院長に警告する。

現れたマイケルは、一見すると過剰なまでの自信にあふれた自己陶酔的な青年に過ぎないが、徐々に、はぐらかしとすりかえとひとの心の隙間を見抜く優れた洞察力の持ち主であることが明らかになってゆく。すなわち、たとえば上述のような病院の置かれたあやうい状況、院長や看護師長を巡る人間関係の中に潜む微妙な緊張を敏感に嗅ぎ取るのである。

ELEPHANT SONG photos: Sébastien Raymond. seb@sebray.com

グリーンは、この種の患者には何人も出会ってきたというヴェテラン医師の慢心を解かず、自分だけはこの青年を適切に扱うことができるという無根拠な自信を抱いているが、それ故に、巧みに感情のスイッチを入れて回るマイケルの鋭い言葉に追い込まれるようにして、彼との取引に応じてしまう。「カルテを読まない」、「チョコレートを与える」、「看護師長を関与させない」という三点と引き替えに情報を手に入れようとするのだ。

われわれもまた、マイケルが何事か企んでいること、そして確実に何かが起こることを最初から知っている。そもそも映画全体が、事後の事情聴取という形式で回想されているではないか。だがそれを知っているが故に院長と同じ過ちを犯すことになる。つまり、「だまされるかもしれないことを知っている自分だけはだまされるわけがない」という、オレオレ詐欺の潜在的被害者めいた心理状態に置かれる。

elephantsong_sub01

なにしろわれわれが目にするのは、まさにグザヴィエ・ドランのイメージそのもののような人物なのだ。レクター博士を自信満々に演じるドランを演じるマイケルという患者、あるいはドランであることに陶酔しきっているドラン、とすら言ってみたくなるだろう。演技は何重にも誇張され、うさんくさいことこの上ない。

はぐらかしの道具として絶えずアフリカの象を持ち出してくるのも、精神異常を演じるサヴァンめいた登場人物の言動としては紋切り型に感じられるし、意味ありげに提示されたオペラ歌手と幼少期のマイケルらしき少年を巡るプロローグもまた、なにやらそれっぽすぎる。

だがしかし、この脚本はドラン自身によって書かれているわけではないし、ドランが監督しているわけでもない。すべての要素は、ドランが自己陶酔するためにあるのではなくみごとに物語に奉仕していたことが、クライマックスと共に明らかとなるだろう。われわれが見せられたのは、登場人物が演技をしているという演技だったのだ。

脚本家ニコラス・ビヨンが書き2004年に初演された戯曲に、いくつか決定的な改変を加えて作り上げられたのがこの映画ということらしい。その変更点はあざといまでにシンプルなものだが、登場人物の心理に、ということは物語そのものに大きな負荷をかけるものとして巧みに機能し、サスペンスの強度を上げている。

この作品を見れば、鼻持ちならないドランもようやくのことちょっとかわいらしく見えてくることだろう。

elephantsong_sub02

公開情報

©Sébastien Raymond
2015年6月6日(土)より、新宿武蔵野館、渋谷アップリンク他、全国順次公開