「森達也が佐村河内守を主題に映画を撮っている」とはじめて耳にしたときには「さすが」と口をついて出たが、同時に、ほとんどセルフパロディーのようだとも感じたものだった。
圧倒的多数が、一定の偏見というか強烈な悪意の視線を浴びせかけている、要するにマスメディアの中でつるし上げを食らっている側に立ってみせることでメディアのあり方を、ひいてはわれわれの持つものの見方を相対化してみせる。森達也という「ドキュメンタリー作家」について教科書的に解説すれば、こういうことになるだろう。
もう一歩踏み込むなら、われわれの生きている社会においてマスメディアによるつるし上げを食らっている存在というのは、それだけですでに異形の存在ということになるわけだが、われわれが森作品に惹かれるのは、彼もまたわれわれと同じように異形のものに惹かれる心性を持っていて、それを隠そうとしていないからでもある。そのまったくもって下世話な好奇心が、森作品の娯楽性を保証している。どれほど真っ当なメッセージを発していても、それがなければ映画とは呼べない。
さて今回の佐村河内守という被写体だが、たしかに、マスメディア上で彼のような叩かれ方をしては、われわれがそれ以外のイメージで彼の姿を思い描くのは難しい。森自身このドキュメンタリーを撮り始める前段階では、「佐村河内守」という固有名を聞かされ、「ああ、耳の聞こえる人ね」と反応する程度の認識だったという。ところが実際に本人に会い、対話を重ねれば重ねるほど、当初クッキリと結像していた佐村河内像はどこまでもぼやけていったのだろう。
「東京オリンピック・エンブレム問題」の佐野研二郎同様、「佐村河内守」問題には様々に次元の異なる問題が、幾重にも重なりながら横たわっている。真偽の判断をすべき問題と、真偽と価値判断との間には本来まったく関係がないはずの問題、そしてもちろん真偽などどうでもいい問題などなど。それらが渾然一体となり、「長髪+サングラス」という外見をはじめ彼の持つありとあらゆる属性が滑稽なまでのうさんくささを構成し証明しているのだという風に、佐村河内守というひとりの人間はほぼ一夜にして読み替えられたのだった。
だからといって、重なり合ったひとつひとつの問題を丁寧に分解し検証していけば意味があるのかといえばそうではない。なにしろ繰り返しになるが、これは映画なのだから、最低限、面白くなければならない。
ならばここでありうべき面白さとはなんなのか。それはもちろん、「どうせこんなもんだろう」と高を括っていたものが、実はそんなもんではなかったことがわかる、その意味では世界がひっくり返る瞬間を体験するということだろう。ただし世界がひっくり返るには、謎は大きくシンプルでなければならない。ところが「佐村河内問題」の構造は、前述の通りそう単純ではない。その道に足を踏み入れ、「真実」を探求すれば良心的な作品にはなりうるかもしれないが、法律家のような証明作業が積み重ねられることになるだろうし、それが面白くなるかといえばきわめて怪しい。
そこで森達也は、迷いなく映画の側についてみせる。何しろ彼はまず「真実」というものを信じていない。「真実」はどこかにあるのではなく、映画というカタチで現出するものにほかならない。だから彼は、事態をあるひとつの軸を選択し、それに沿って頭からお尻まですっぱりと斬って見せる。
結果、われわれはあるひとりの男の絶望と再生の物語を目にすることになる。男は怒り、警戒し、疑っている。味方は妻以外誰もいないと見定めている。「集団リンチ」を受けた後なのだからあたりまえともいえる。そこへ森達也という男が、カメラを抱えて姿を現す。カメラを抱えている以上、男の警戒はそう簡単にはとけない。とけないながらも、自分をつるし上げあざ笑うことだけを目的とする連中とは違うようだとも気づく。なにしろ自分の話に耳を傾けているのだから。
そこから、格闘がはじまる。比喩ではない。これは、カメラを向ける者と向けられる者の格闘技なのだ。見る/見られる、検証する/検証される、取材する/取材される、利用する/利用される……すべてがめまぐるしく入れ替わっていく。
そんな激しいとっくみあいのさ中にさまよい込んだ第三者たちもまた、たちまちのうちに当事者として矢面に立つことになる。大手テレビ局の社員たち、制作会社のプロデューサーたち、外国人ジャーナリストたちなどなど、いろんな人間がさまざまな目的で画面に飛びこんでくる。文字通り、飛んで火にいる夏の虫である。
筆者自身ある経緯から、立ち会うだけのつもりで二回ほど撮影に同行したのだが、気づくとカメラの前で当事者となっている自分を発見したものだった。ぼんやり街角を曲がったら市街戦に巻き込まれていたというような話だ。油断も隙もない。
もちろん映画作家としての森達也は、その段階で明確な企みを持っているわけではなかっただろう。つまり、あらかじめ準備した結論に向かって現実を追い込んでいこうとしているわけではないことがまた、彼の怖ろしいところでもあり、この映画のスリリングさの所以である。彼自身が、火に飛びこむ虫たちと共に、というよりそんな虫けらたち以上にのたうち回っているのだ。だから、誰でも彼でも巻き込んで、火の中に放り投げる。そこから飛び出てくるものを手ぐすね引いて待ち構えている。
一方で、この映画の中に飛びこんでこない連中もいる。代表的には、佐村河内の「ゴースト・ライター」をつとめていたとされる新垣隆、また、騒動に火をつけそれによって大宅壮一ノンフィクション賞まで獲得した「ノンフィクション作家」の神山典士といった人々だ。当然のことながら、彼らの不在からは意味が読み取られることになるだろう。そしてそれがまた、物語の骨組みを強化してゆく。
最終的には、前述の通りひとりの男の死と再生の物語が出来上がる。そしてその物語は、映画のラストにいたり、ある明確なカタチをもってもう一度入れ子構造をなしてまとめ上げられる。それ自体が男の再生の証しともなる。見てしまえば、「たしかに、これ以外の結末はありえないだろう」と誰もが納得するシークエンスである。ここで明らかにされたこと以外の「問題」など問題ではなかったということも、ようやくハッキリする。
結局のところ物語を作るのは、そのように見たいと考えている側であり、見られる側は見られている以上すでにして見る側の物語の一部にすぎない。その関係が覆るのは、見る側の望む物語をなぞり油断させたその先で、不意に見る側の予想を上回る運動に入り、物語から飛び出してみせるという瞬間以外にないだろう。それは見られる側の自意識の結実でもあるし、爆発でもある。中途半端であれば「キモイ」のひとことで片付けられかねないそんな瞬間を後押しして、しかも観客の胸を撃ってみせるというのは並大抵のことではない。ここでおこなわれているのは、そういう種類のことなのだ。
佐村河内守は、たしかにこの映画を通して一般的なイメージとはまったく別の次元へと移行した。では、佐村河内守が勝ったのか、森達也が勝ったのか。映画さえ面白ければそんなことはどうでもいいわけだが、ひとつハッキリしているのは、「佐村河内守のドキュメンタリーね」とせせら笑いながらこの映画を見始めた観客は全員敗北を喫したということだ。
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