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“映画の都”というファンタジックな妄想

ジョエル&イーサン・コーエン『ヘイル、シーザー!』

文=

updated 05.10.2016

時は1950年代後半、舞台は“ハリウッド”、テレビによって地位を脅かされながらも、まだまだスタジオ・システムが機能していた頃の“映画の都”である。主人公は、「何でも屋」としてスタジオの抱えるトラブルを解決して回るエディ・マニックス(ジョシュ・ブローリン)。俳優たちの結婚からスキャンダルの尻ぬぐい、その他もろもろ裏から表から解決できない問題はないが、ニューヨークにいる“ボス”にだけは頭が上がらない。そういえば劇中明言されていなかったような気がするが、撮影所長ということなのだろう。

このエディのもとに次から次へと飛びこんでくる厄介事を軸に、“映画の都”が放っていた輝きを再現してみせるというのが、この映画の骨子である。スカーレット・ヨハンソン演じるところの女優が主演する水中群舞ミュージカルの断片、チャニング・テイタム演じるところの俳優が主演する水兵たちが踊って歌うミュージカルの断片といったものが、断片というよりはもう少し長く、ちょうど『ザッツ・エンタテインメント』シリーズを思い起こさせるくらい、ひとつのシークエンスを楽しめるくらい十分な長さをもって挿し込まれる。

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中でも中心的な軸を担うのが、アクションはできても芝居のまったくできない田舎ものの西部劇俳優ホビー・ドイル(アルデン・エーレンライク)と、古代ローマを舞台にした歴史超大作を撮影中の大スター、ベアード・ウィットロック(ジョージ・クルーニー)である。ホビーは、我が家のように居心地のいいウェスタンの撮影現場から連れ出され、いきなりヨーロッパ人監督ローレンス・ローレンツ(レイフ・ファインズ)の演出するメロドラマの現場に放り込まれ、監督をキリキリ舞いさせることになる。

一方ベアードは、赤狩りによって業界から締め出された左翼映画人のグループによって撮影現場から拉致される。そのためエディは、身代金要求への対応、不在のスターを嗅ぎ回る双子の記者たち(ティルダ・スウィントンによる一人二役)からの隠蔽工作などなどに追いまくられることになる。

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という具合に、“映画の都”をめぐるイメージの欠片が、ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』的な“ダーク・サイド”から、『ザッツ・エンタテインメント』に集められたきらびやかな栄光までの色彩の幅を持って、コーエン兄弟らしい軽さで束ねられている。ということは、なんらエモーションを動かされることのないぶつ切れの断片を見せられたと感じる向きもあるだろうし、種々の“目配せ”に昂奮する向きもあるだろうという映画なのである。

コーエン兄弟のフィルモグラフィーには、どちらかと言えば空虚な戯れに見える作品が多い。たとえば近年世の称賛を浴びた『ノーカントリー』(07)であっても、どこまで本気なのかと落ち着かない気分にさせられる。そういう意味ではこの映画も、「またぞろコーエン節のおふざけ」と言われればそれまでなのだが、それでもなんとなく「そうとばかりは言い切れない」という気持ちになるのは、映画と映画産業へのわかりやすすぎる“愛”の無邪気な表出だから、ということになるのだろう。紋切り型といわれようが、しかたがない。

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スクリーンを眺めていると、上述のスター役はもちろんのこと、スティーヴ・エリクソンの小説『ゼロヴィル』の中で主人公の青年を庇護し教導する老女性編集者を思わせる人物(フランシス・マクドーマンド)や、エディの片棒を担ぐ公証人(ジョナ・ヒル)から撮影所のスタッフのひとりひとりのようにちらりちらりとしか登場しない脇役に至るまで、だれ一人として憎たらしいキャラクターは登場しない。

裏側ではどれだけメチャクチャなことが起こっていても、とにかく映画を作るという一点に全員の意識が集中する瞬間を持てる職人集団というのは気持ちがいいなあ、というノスタルジックというよりファンタジックな妄想を改めて刺激してくれるという意味でも、映画としてさほどうまく機能しているとはいえないとしても、キライではない。

公開情報

©Universal Pictures
5月13日(金) TOHOシネマズ シャンテ他 全国ロードショー
配給:東宝東和
公式サイト: http://hailcaesar.jp/