突然フェイスブックに“しあわせいっぱいな家族写真”を上げまくる人間を見ると、よっぽどツライ毎日を送っているのだろうなと考えるし、いきなり「“しあわせ”ってなんだろう」なんてことを考え始める者がいたら、よっぽど経済的時間的な余裕のある生活を送っているのだろうとしか思えないわけだが、この映画の主人公へクター(サイモン・ペッグ)などはまさにそのタイプなのである。
中年期に入ってしばらく経っているという年頃の精神科医ヘクターには、同棲している彼女クララ(ロザムンド・パイク)がいるし、日々の仕事が退屈きわまりないと感じられるだけのキャリアを積み上げてきていて、社会的にはなんら不安のない生活を送っている。それがある日突然、自分でも“しあわせ”の意味がわからないのに患者たちを“しあわせ”になんかできるのだろうかと思ってしまうわけだ。
いや、そんな高尚なことではなく、変化のない毎日、安定しきった男女関係、役に立っているか立っていないのかわからないルーティンの仕事に倦み果てて、日常を飛び出すことに決めたというに過ぎない。まあ、飛び出す余裕があるヤツはいいよね、という皮肉はすぐに口を突いて出るだろうが、余裕があったとしても飛び出すのはなかなか難しいものだ。もちろん、飛び出すとはいってもすべてを捨て去るわけではない。ただ日常生活の“一時停止”ボタンを押し、その隙間に非日常を挿入してみようというだけのことではある。
それにしても、“日常”というものの呪いはすさまじい。それが続くと退屈して逃げたくなるが、それが失われる恐怖を考えるとなかなか手放せない。ヘクターの場合は精神科医という職業を隠れ蓑に、「しあわせについてのリサーチをおこなう」というふうに、とにもかくにも目的を言語化することでおのれを説得できたのが幸運だった。しかも映画を見ていると、図々しいまでに他人とのかかわりを持つことのできる性格である(なにしろサイモン・ペッグなのだから)。それによって、一本線の移動から楽しい枝葉がのび、“冒険”が生じる。これがもし、気の弱い対人恐怖症者による“自分探し”の旅だったとしたら、最後まで誰とも出会うことなくただ移動と日常離脱の満足感だけが内部に堆積して帰ってきているというお話になるはずで、そんな旅を見せられてもわれわれにとっては面白くもなんともない。
いや、もちろんそうであったとしても(本人にとっては)いいわけだし、どれだけこの映画の物語をななめから皮肉な目線で眺めたくなったとしても、誰もがヘクターと同じ願望を抱えていることだけは否定できないだろう。そうではないと言い切れる人間はただのバカか、異常なまでに図太い神経の持ち主ということになる。
しかしながら、表面上どれほど男女同権が実現されていたとしても、今のこの社会の中で育て上げられたわれわれ男性にとっては、それを現実化するのが女性以上に難しいということも知っている。そしてこの映画が、そんなわれわれの背中を少しだけ押してくれるのかといえばはなはだあやしいが、それでも「“日常離脱”は女性だけの“特権”ではない」と考える契機を中年男性に与えるかもしれないという意味では、良い物語なのではないだろうか。旅の結論がどれほど陳腐なものでもかまわないのだ。
公開情報
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