90年代に入ったばかりのころ、ドイツ人の友人にナチズムの話を振ると、ほとんど例外なくその顔から表情が消えたものだった。なんの言葉もなく、ただ沈黙が訪れた。それ以外のあらゆる話題に一家言持ち、いつでも皮肉なユーモアを絶やさない男にしてもそうだった。外国人相手だからなのか、ドイツ人同士でも同じなのかとやや薄気味悪く感じた。
一方この映画で描かれる50年代後半のドイツでは、ナチスやホロコーストに関する記憶に蓋がされ、社会のいたるところで元ナチス党員が安穏な生活を送っている。物語の中で解説されることはないが、東西冷戦下で分断されたドイツの中にさらなる断裂を生じさせたくないというアメリカの都合があったのだろう。まあ、日本社会はその都合に乗っかったまま、今日に至っているわけだが。
そういう社会状況の中で、若き検察官ヨハン・ラドマン(アレクサンダー・フェーリング)が、当初はそんなつもりもなく、生来の生真面目さからなんとなく関わってしまったある訴えをきっかけとして、アウシュヴィッツ収容所での虐殺に荷担した膨大な数の人間たちの訴追を押し進めていくことになるという物語が、娯楽映画として展開されるのがこの作品である。「執務室を一歩出れば、敵だらけだ」という検事総長フリッツ・バウアー(ゲルト・フォス)のセリフに収約されるとおり、組織としての警察ですら味方ではないという逆境が、文字通り主人公の孤軍奮闘によって少しずつ覆されてゆく。
その描き方は極めてそつがなく、たとえばアウシュヴィッツにおける残虐行為のディテイルがこれ見よがしに語り直されることはない。そのかわり、ただその話を聞く者たちの打ちのめされた表情やその後の行動によって、その深度と衝撃を観客に伝えてみせる。結果、観客は“道徳的に正しい反応”を強いられるということがないため、安心して物語のサスペンスに身を委せることができるのである。
また、物語が幕を開いた時点ではすでにこの世を去っていて、ヨハンが“正義”と信じるものを追求する原動力となる言葉を残した彼の父親自身もまた、糾弾の圏内に置かれる。すなわち、過去を暴き立てるということが、すべての若者の父親たちを俎上に載せることにほかならないという現実を、主人公自身が身をもって体験することになるのである。それが物語の上では、主人公を撃つ最も大きな挫折となるだろう。これによって、倫理的な安全圏にいる者が絶対的な正義を追求するという図式のいやらしさが排除される。
この手のお話においてはまさにそのバランス感覚こそが重要で、どちら側に傾いても、教条的な物語になってしまう。かくて、ひとり苦しい戦いを続ける主人公が、徐々に仲間や味方を得ながら歩みを進めていくというお話が、登場人物たちの心に寄り添うミクロな視点から巧みに観客のエモーションを誘導しつつ、展開されることになる。
ただ一点、これがイタリア人監督によって撮られているという事実だけがやや残念なような気もしたが、やはり外部の人間によって撮られることでしか、このテーマを扱いながらこの娯楽性は確保できなかったのだろう。
ヨーロッパの中でも最も醜い街であるフランクフルトが主な舞台となるのだが、あの街のどこにこんなに感じの良い場所があったのかというような風景が頻繁に映し出される。その一点だけを取り上げても、この監督の現実を再構成して娯楽を作り出すという力の一端を感じられるというものではないか。
公開情報
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10月3日、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開