古い記念写真や絵はがきを想起させる「変形スタンダード・サイズ」のフレームの中、波打ち際の岩場に数人の男たちが散らばっているという風景からこの映画の幕は開ける。風や生き物の気配や男たちの佇まいには、どの瞬間にも物語の胎動が感じられる。あるいは物語の結末が。澱んだ暴力の匂いが彼らの身体にまとわりつき、いままさに噴出しそうなものの兆しもある。われわれは、それがいつ顕在化するのかとひたすら固唾を呑んで見守り続けることになるだろう。
ここは19世紀末のパタゴニアで、ひたすら荒野が拡がっている。“文明”の欠片はほとんど目に入らない。ぼんやりとだが、男たちは“原住民の掃討”に従事しているらしきことが明かされる。
カメラがひっそりと寄り添うことになる男、グンナー・ディネセン大尉(ヴィゴ・モーテンセン)は、ひどい訛りのスペイン語を話す。どうやらデンマーク人ということらしい。娘インゲボルグ(ヴィールビョーク・マリン・アガー)を同行させていて、彼女の存在によって暴力に倦んだアルゼンチン人軍人たちの間に性的緊張が高まっている。
ある晩、インゲボルグはひとりの若い兵士コルトと共にキャンプ地を出奔し、荒野の彼方に姿を消す。ディネセンは軍服を身にまとい、軍人たちの制止にも耳を貸さず、ふたりの後を追う。
ところでこの地域には、スルアガと呼ばれる元政府軍将校の噂が伝説のように広まっている。かつては先住民を殺しまくり、今は彼らを率いて暴虐の限りを尽くしているのだと。それはもちろん、ただちに『地獄の黙示録』のカーツ大佐を想起させるだろう。そこにいたってようやく、なるほどこれはそういう映画だったのかとわれわれは考えはじめる。いつか、どこかの段階でスルアガとの対決が待ち受けているにちがいない。あるいはどのようにしてか時空がねじ曲がり、最終的にディネセンこそがスルアガだったと明らかになる可能性もある。そうした想像は、正しくもあるし誤ってもいる。
ディネセンの旅はいつまでも続く。失踪したのはインゲボルグなのかディネセンなのか、そんなことがどうでもよくなる地点をすぎても旅は終わらない。スタンダード・サイズの小窓はやがてフレームを失い、地平線上の消失点と融け合い始めるだろう。
だが、この映画の中で最後まで変わることなく明確な輪郭を保ち続けるものがある。それが音だ。あたかも、映像の中で起こっている出来事が音を生じさせているのではなく、音こそが出来事を生成しているかのようにすら感じられる。冒頭の潮騒をはじめ、止むことのない荒野の空気音、瀕死の男のたてる湿った呼吸音、あるいはデンマーク語の意味を持たぬ息づかいような響きやスペイン語の野卑な音、そしてニック・ケイヴとウォーレン・エリスによる劇伴を思い起こさせる音楽(それは、ヴィゴ・モーテンセンの手によるものらしい)。それらの音がわれわれの中のフレームをも融解させ、意識を荒野の彼方へと滲出させてゆくのだ。
そもそもが、禁欲的な映画ではない。実のところここではありとあらゆることが起こり、最終的には今現在を生きるわれわれの存在すらが、文字通りその中に取り込まれていることになるのだから。
公開情報
6月13日(土)ユーロスペースほか全国順次公開
公式HP www.jauja-yakusokunochi.com