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映画で語ることへの欲望

アニエス・トゥルブレ『わたしの名前は…』

文=

updated 10.29.2015

映画監督本人のおしゃべりが、その人の作る映画の語り口に似ているということはままあるが、ひとりの人間がどういう映画を好み、どういう作品についてどう話すのかということから、その人が作ってきた(あるいは作ることになる)映画の質をある程度推測することができる、ということもわりとあるのではないだろうか。

要するに映画について面白い話のできる人の作る映画は面白い可能性が高いということなのだが、それが、自身の製作会社Love Streams angès b. productionsを立ち上げ実際の映画作りにも関わってきアニエスベー(ことアニエス・トゥルブレ)のようなマニアを越えたマニアの場合、いわゆる映画の教養がよけいな邪魔をして、ストレートに発露させていれば面白かったかもしれない原初の欲望が疎外されてしまうということも考えられるだろう。

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そんなおそれも抱きながら『わたしの名前は…』を見たところ、それは杞憂に過ぎず、人間について映画で語ろうという欲望が手放されていなかった。ということはつまり、ある程度以上に世界観と骨組みの鮮明な脚本が準備されていて、その上で登場人物たちは自律的に行動し、語られるべき物語が語られていたということである。

もちろん、ちいさな映像的実験(たとえばストップ・モーションや画質の異なるビデオ映像の挿入)や、映像の美しさに淫しない自由さを証明するためにか時折用いられる“ヘタな映像”(たとえば急なズームやぎこちないパン)、あるいは作り手の趣味が直截うかがえるサウンドトラック(ソニック・ユース)、さらには物語からのちょっとした逸脱(アントニオ・ネグリその人が流浪の旅人として登場したり、急に日本人舞踏家が出現する)といったものには随所で出会うことになるだろう。

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だがそういったものもすべて、ある種のかわいらしさの中におさまっていて、好感が持てる。自意識の噴出ではなく、語りへの欲望が故の様々な工夫や実験であることが感じられるのだ。部分的にジョナス・メカスによって撮影されたというパートですら、不自然に際立ちすぎるということがなかった。

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お話は、ある崩壊した家庭からはじまる。父(ジャック・ボナフェ)は失業中、母(シルヴィー・テステュー)はひとり家計を支えるため、いつでも不在。12才の長女セリーヌ(ルー=レリア・デュメルリアック)は、父と弟妹たちの世話をしているが、それは家事のみに終わらず、精神を病みつつある弱い父親の性欲を受け止める役まで引きうけさせられている。そしてある日、遠足で家を離れることのできた彼女は、海辺で出会った巨大なトラックに忍び込み、出奔する。

トラックを運転しているのは、スコットランド人のピーター(ダグラス・ゴードン)で、妻子を失ってから日も浅いらしく、絶望の淵に沈んでいる。セリーヌはそんな彼のもとに突然姿を現す。

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原題には、「私の名前は」にあたる文章の後に「hmm…」という文字列が続くのだが、これはピーターに名を問われたセリーヌが、文字通り「フムム」というように音で答えたのをそのまま表記したものである。以降彼女は、最後まで名を発声することがなく、ピーターはそのまま彼女を受け入れる。こうして、何者でもないふたりのロード・ムーヴィーがはじまる。

人間を語ることへの欲望と書いたが、娘を虐待する父親の人間像が描かれるとき、それがより濃厚に顕れる。父親はただの怪物ではなく、自身の行為に恐怖する怪物として捉えられているのである。もちろん、物語上彼の所業が正当化される隙は微塵もないが、いわばゴヤの描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』のように、我と我が身のおぞましさにおそれおののく存在なのである。

だから、この物語が復讐へと向かうことはない。それは物語の定石はずしのための定石はずしではなく、作り手の人間理解から必然的に導き出された結論であることは、映画を通して理解されるだろう。次の作品も見てみたいと感じた。

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公開情報

©Love streams agnès b. Productions
2015年10月31日(土)、渋谷アップリンク、角川シネマ有楽町ほか、全国順次公開