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あり得たかも知れない風景

ケン・ローチ『ジミー、野を駆ける伝説』

文=

updated 01.15.2015

アメリカから故郷アイルランドに帰ってきた男が主人公と聞くと、直ちにジョン・フォードの『静かなる男』が頭に浮かんでしまうところだが、あれは1952年の映画、これは1932年ごろのお話である。前者は完全なるフィクション、後者は史実に着想を得たフィクションという大きな違いもある。そしてそれ以上に、二作を並べるだけで冒涜的に見えそうなほど、われわれが見せられる風景は異なる。真逆といってよいだろう。いや、おそらくはこの映画が描くような現実があったからこそ、あり得べき世界として『静かなる男』のユートピア的な風景が夢想されたのではないかと結びつけたくなる。

主人公ジミー・グラルトンは、ウィキペディアではそっけなく、アイルランド共産党の指導者、アメリカ国籍を取得、国外追放された唯一のアイルランド人、という風に説明されている。実際、その人生の詳細については記録が少なく、むしろそのおかげでこの作品は、グラルトンという存在を単なる活動家以上の人間の姿に描き上げることができたのだという。

Jimmys Hall - Written by Paul Laverty, Directed by Ken Loach, Pr

アメリカで過ごした10年の不在の後、ジミー(バリー・ウォード)が故郷の片田舎リートリム州に帰還するところから映画ははじまる。彼は、かつてその地に「ピアース=コノリー・ホール」と呼ばれる「コミュニティ・ホール」を建設した過去を持っている。そこは、教会権力の及ばない自由な空間として広く人々を迎え入れ、地主の横暴に抵抗する借地権闘争の拠点ともなった。その活動のために、彼はアメリカへと逃走せざるを得なくなったのであった。

当初ジミーは、そうした過去から離れて暮らそうとするが、変わらず教会と地主の強大な権力の下に抑圧されながら生きている人々、とりわけ「ホール」の存在を「神話」として耳にしてきた若者たちに押されるかたちで、その再開を決意する。当然それは、教会をはじめとする権力側のおそれに火を点けることになり、新たな戦いがはじまる。過去の経験に学んだジミーは、闇雲な抵抗ではないものを模索する。たとえば、対立する既成権力を代表するシェリダン神父(ジム・ノートン)その人を、「ホール」の運営側に招き入れようともするのだ。だがそうした試みが功を奏することはなく、弾圧は次第に厳しいかたちをとりはじめてゆく。

たしかに、複雑なアイルランド近代史についての予備知識があれば、映画をよりスムースに味わうことができるのだろう。しかしそれが皆無であっても、前述のとおり史実の隙間に夢想が注ぎ込まれているが故に、一本の自律した青春映画として十分に機能していることを、まずは記しておきたい。かつてケン・ローチ作品といえば、あまりに剥き出しとなった酷薄なリアリズムに、映画としての衝迫力とは無関係に、できることならば出会いたくなかったという気持ちにさせられる瞬間がままあった。ところがこの作品では、娯楽映画としての味わいが手放されることは最後までないのである。

つまりここには、忘れられた英雄の姿が、あり得たかもしれない風景として具現化されている。その意味においてやはり、この映画は『静かなる男』とも通底しているのだろう。特に、カトリック教会の既得権を体現し、ジミーを容赦なく追い詰めながらも彼への敬意を隠さないシェリダン神父という登場人物の造形のされ方を見ていると、『静かなる男』には登場するはずのないキャラクターであるにもかかわらず、どこかジョン・フォード的な男の姿が思い出されはしないだろうか。

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公開情報

©Sixteen Jimmy Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Element Pictures, France 2 Cinéma,Channel Four Television Corporation, the British Film Institute and Bord Scannán na hÉireann/the Irish Film Board 2014
1月17日、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて全国公開