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“懐かしさ”と“陰謀論”

ウォシャウスキー姉弟『ジュピター』

文=

updated 03.25.2015

大衆娯楽の世界では、圧倒的なポピュラリティを獲得した“画期的かつ独創的な作品”というのは、ほんとうに誰も見たことのなかったもの、すなわち真に斬新なものではなく、誰もが知る要素を誰もが納得するかたちで、ただしこれまでまだ誰も試みたことのなかったバランス感覚で混ぜ合わせることに成功したものを指す。その最もわかりやすい例のひとつが『マトリックス』(99)だった。周知のとおりアメコミから日本のアニメやマンガ、カンフー映画からサイバー・パンク小説やメディア論などにいたるまでのおいしい部分が巧みに抽出されていた。しかもそれが単なるパロディや模倣ましてやマーケティングの結果ではなく、そこに封入されたメッセージや思想が作り手たちによって真剣に信じられているということが伝わってきたし、なにより作品を支えていた世界感覚が時代とシンクロしていた。

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今でも、ほとんど予備知識なく最初に見たときのことを覚えている。たしかにとても面白かったが、なじみ深い世界だという感覚もあり、見たこともない映像表現、物語展開かといえばそうではなかった。というようなことを、結果が出た後になってからいうことなど誰にでもできる。これがなんらかの批判として口にされるとしたら、“卑怯”のそしりを受けねばならないだろう。

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ではこの、“ウォシャウスキー姉弟16年ぶりの完全オリジナル作品”とされる新作『ジュピター』はどうなのか。端的にいって“斬新”ではない。というか、“斬新”さは追求されていない。さまざまな次元で、“懐かしさ”の感覚を刺激する要素が意図的にちりばめられている。たとえば、冒頭いきなり登場する“宇宙人”の“王族”たちが、きらびやかな衣装を着たまま英語を話すシーンでは『火星年代記』の頃のSFを思い出すだろうし(ただし、彼らが人間の姿をし、人間の言葉を話していることについてのSF的な理由付けはのちほどなされる)、「連邦本部」と呼ばれる巨大な官僚機構はスチーム・パンクな意匠で構成されているが、ここで『未来世紀ブラジル』を思い起こしているとテリー・ギリアムその人が出現したりする。

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と、ここまで考えて、『マトリックス』との本質的な相違に思い当たる。つまり、『マトリックス』になじみ深い要素がたくさん詰め込まれているということはすぐにわかったが、それは複数の映画を含む作品群の記憶を感じ取れるということなのであって、ある一本の映画だけが参照作品として透けて見えるということはなかった。『ジュピター』ではそれがある。そこが『マトリックス』との決定的な違いであり、その参照作品とはもちろん『マトリックス』なのだ。

しかしながら、それがいけないということではけっしてない。長編監督作品第二作目にして『マトリックス』ほどの“集大成”を作り上げてしまった人間たちに向かって、それを超える作品を生み出せとどこのだれがいえるのか。全世界で数え切れないほどの人間が、『マトリックス』とは全く異なる『マトリックス』的な(商品・作品としての)強度をもった映画を作ろうともがき苦しんでいた時期がたしかにあったのだから、本人たちが自らの創出したパラダイムの中でクオリティの高い映画を作ることのなにがいけないのか、という話だろう。

つまり、新作『ジュピター』は高いクオリティを持つ娯楽作品だが、そこに『マトリックス』と同種の発見を求めてはいけないし、『マトリックス』と同じ物語構造を持っているという指摘は、批判でも評論でもないということなのだ。ウォシャウスキー姉弟はこういうお話がすきなのだからしかたがない! とはいえ、やはり時代の空気は変化しているわけで、彼らもそのことは知っているようだ。

『ジュピター』の主人公(ジュピター=ミラ・クニス)は、平凡なというよりも肉体労働者階級の苦しい生活を送っている若い女性だが、『マトリックス』におけるネオ同様、実は“地球上の人類を救う(ことができる)存在”である。だがその事実は、ネオのときは「覚醒せよ」という世界そのものを転倒させるメッセージとともに伝えられたのに対して、ジュピターの場合はある日突如現れた戦士(ケイン=チャニング・テイタム)によって、彼女が“宇宙最大の王朝の王族”の一員だと一方的に知らされることによって明らかとなるにすぎない。“覚醒”=認識を自ら転換しようという努力は必要とされない。

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つまり、そこにはもはや『マトリックス』を支えていた陰謀論的な世界観はないのだ。『ジュピター』は古典的なSFの枠内に留まろうとしているが、その精神は『ハリー・ポッター』シリーズ同様のファンタジーに近づいている。主人公は、自身の努力とは無関係に、ただその出自によって圧倒的な力を手に入れる。とはいえ、“視点を変えるだけで世界の様相は一変する”という認識だけは通底している。

これはなにを意味しているのだろう。陰謀論的な視点が、この時代においては有効性を失ったという認識に到達したのだろうか。もちろん、単に定番の物語テンプレートを使ったということかもしれないし、彼らの世界認識が老成したということなのかもしれない。もしかすると、“庶民”の皮膚感覚を失ったということだったりするのだろうか。いやいや、娯楽映画の作り手にそこまで背負わせるのは不当ではないかとも思うし、同時に、『マトリックス』ではたしかにそこまで踏み込んでいたんだからといいたい気持ちも生まれてくる。トム・テイクヴァと共同監督した『クラウドアトラス』(12)にしても、原作ものとはいえ、『マトリックス』をスピリチュアル方面に寄せた世界観で貫かれていたではないか。なるほど、スピリチュアルからファンタジーへというのは、“撤退”の道筋としてわかりやすいとはいえ……。まあ、こんなことは微塵も考えずこの映画を楽しむだけで十分だし、それはそれで正しいのだが。

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公開情報

(C)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED. ALL RIGHTS RESERVED.
3月28日(土)新宿ピカデリー・丸の内ピカデリー他全国ロードショー
オフィシャルサイト: http://www.jupitermovie.jp
配給: ワーナー・ブラザース映画