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われわれの生きる悪意

橋口亮輔『恋人たち』

文=

updated 11.12.2015

たとえば、足を骨折した男がいる。松葉杖によろめきながら助手席のドアに手をのばすが、開かない。キーを手にした運転手は、そのことに気づかないのかどうか、携帯で話し込んでいる。このとき、運転手は物件を案内する不動産屋で、その学生時代からの友人が松葉杖の男、松葉杖は不動産屋を長い間親友だと思ってきたのに、このところ奇妙によそよそしいと感じていたらどうだろう。

そこには間違いなく、なんともいえない苛立ちと不安と焦燥が立ち上がる。そうした感情をかきたてるものを総称して悪意と呼んでもいい。この映画には、そういう小さくても鋭く突き刺さる悪意がたっぷりと封じ込められている。

三人の日本人が日々を過ごしている。ひとりは、高速道路の橋梁を小さなハンマーで叩くことで内部の状態を確認する点検作業員として。もうひとりは夫とその母と共に暮らす、弁当屋の主婦パートとして。そしてもうひとりは、企業や高所得者を主なクライアントとする事務所で働く弁護士として。

点検作業員の篠塚(篠原篤)の生活は荒れていて、ひとり暮らしの部屋にはゴミが散乱し、社会への呪詛を独り言として漏らしながら街を歩くその姿は、ほんのささいなきっかけがありさえすれば、通り魔殺人を起こしそうに見える。そういう彼が特別な才能を見せるのが、聴覚だけで橋梁の異常を感知するといういわば人知れず社会の安全を確保する仕事だというのが、皮肉に感じられる。

主婦パートの曈子(成嶋曈子)の家庭にはいっさいのコミュニケーションが欠落している。ただ定期的な夫の性欲処理作業と、ひたすら続く家事の連鎖だけがあり、彼女の唯一の楽しみは、明け方の薄暗い居間でタバコを吹かしながら、かつて“追っかけ”ていた皇族のビデオを見直すことである。そこに映っている(とおぼしき)皇族と彼女の生活の間には、天文学的な距離が広がっているが、密かな趣味として彼女が描きためている少女マンガ風のイラストと物語は、その距離を妄想の中で埋める機能を果たしているのだろう。

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弁護士の四ノ宮(池田良)は、終始ひとを小馬鹿にした笑みを浮かべていて、他人はおろか同棲相手をも人前で嘲弄するような男である。世界をあざける気持ちがそのまま自身へと跳ね返ってきているのか、恋人との関係は破綻し、何者かに階段から突き落とされて足は折れ、学生時代からの親友にも冷ややかな距離を置かれている。その姿を見ていると、「それにしても、ねじくれた彼の根性は、同性愛者であることと何か関係があるのだろうか」と考えるわれわれもまた、おそらくは彼の中に、自身マージナルな存在であるが故にことさら弱い者を挫きたくなるという性根を形成させてきた社会の一員である。

造形としての美しさも含めて、三人の中に見ていて気持ちの良いところは欠片もない。しかしながらこの映画は、そんな彼らの愚かで卑小な姿を笑う陰惨なコメディとして作られたわけではない。あたりまえのことだが、つまらない日常がつまらなく描かれているということではないのだ。映画としての構成もあれば企みもあるし、昂揚も失望もある。

当初われわれは篠塚の姿を見て、「気味の悪い穀潰し。早く勝手に死ね」と感じるわけだが、やがては彼の憎しみにも悲しみにもシンクロして、涙すら流すことになる。曈子については、「ブスの主婦。子どもだけは作るなよ、不幸にするだけだから」と考えるかもしれないが、藤田という男に心ときめかす曈子と共におもわず気分が高揚している自分に気づくだろう。四ノ宮に至っては、最後まで「生きる価値のないイヤらしいエリート」でしかないように思えるのにも関わらず、彼の陥る絶対的な孤独は、われわれの心を芯から冷え込ませることになる。

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「人間というのは、どれほど取るに足らない者であっても、それぞれに事情を抱えながら生きているのだ」というのは相対主義の紋切り型だが、その紋切り型によって判断を留保させられたり、覆されたり、思わず己の先入観を恥じたりしない人間だらけの社会ほど生きにくい場所もないだろう。

しかも、たとえそういう認識に辿りついたところで、三人の生活は変わらない。彼らの毎日の中ではこれまでどおり、何気ないように見えて鋭く心をうちのめす悪意が噴出したり、人類への憎しみが頂点に達しようとしたその瞬間にふと心を溶かすやさしさを持つ言葉が口にされたり、だれ一人味方がいないとあきらめていた薄闇の中に奇跡のように光を投げかけてくれる人間が出現するということもあるが、そうした瞬間のすべてがたちまちのうちにご破算となり、根本的な変化は決して訪れることがない。

だから、どれほど目を凝らして彼らの姿を見つめていても、救いだけは見当たらない。だれもがわれわれと同じくらい醜く、見苦しくどうしようもない日々を送っている。「いや、おそらくは彼らの方が幾段か悲惨さの度合いが上だろう」とたかを括っていると、その隙をついてわれわれの心は抉られることになる。まったくもって気を抜けないし、目を離せない。凄惨なホラー映画のはじまるほんの一瞬前の不穏さが、最初から最後まで続くといってもいいだろう。そして、それこそがわれわれが生きる現代日本という社会の姿そのものなのだと、この映画は止むことなくわれわれの耳元で囁き続ける。

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とんでもなく鬱陶しく、イヤらしく、他人事でない。だが、そのこと自体がこの映画の娯楽性を強力に担保してもいる。とにかく目を逸らすことができないまま、140分の間主人公たちと共に感情と人生の澱みを強烈に体験させられてしまうのだから。しかも最後には力業で、ある種の爽快さがもたらされる。これは奇跡的なことではないだろうか。

公開情報

(C)松竹ブロードキャスティング/アーク・フィルムズ
11月14日よりテアトル新宿ほか全国ロードショー