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おとなのコメディ

ロマン・ポランスキー『毛皮のヴィーナス』

文=

updated 12.17.2014

ポランスキーとマゾッホという組み合わせにはそれほど意外性がないし、今さら文芸作品の映画化など見たくないという気がしたのだが、『ゴーストライター』(10)や『おとなのけんか』(11)といった近年の小品が持つ揺るぎない娯楽力を思い起こせばやはり見ないわけにはいかず、果たして予想を遥かに超えた楽しい96分間を過ごすことになったのだった。

まず、デイヴィッド・アイヴスによって戯曲化されたこの映画の原作というのが、ただ単にマゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』を脚色したというしろものではない。『毛皮を着たヴィーナス』(この映画では『毛皮のヴィーナス』と訳されている)舞台版の演出家(マチュー・アマルリック)が、ヒロイン役のオーディションをしているという設定で物語の幕は開く。なるほど、フレームを一階層外側に置いて見せたというよくあるメタ戯曲化ね、というふうにたかを括るのは早い。たしかにメタ脚色には違いないのだが、階層構造が固定化されているわけではなく、メタ階層は素材に浸食され、それを批判的に検討し再構成しているつもりの演出家自身がそのまま素材と化していき、素材の主題そのものもまた二重三重にひっくり返されていくことになるのだから。

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いや、小難しいことが起こっているわけではない。オーディションを終えて帰宅しようとしている演出家の前に、下品でとっちらかった様子の自称女優(エマニュエル・セニエ)が姿を現す。演出家からすれば、一目見て論外なのだが、なんだかんだと図々しい女優をなかなか追い払えず、仕方なくかたちばかりのオーディションを始める。

なにしろこの自称女優、言葉遣いもヒドければ教養もまったく欠いていて、「ヘンタイSMエロ本でしょ」とばかりに下品なボンデージ系衣装を着てみせる。しょせん、女性差別の偏見に充ちた男の妄想ではないかと、浅薄な当世風批判を作品にむけて浴びせたりもする。当然、原作の中に美しく深遠な愛の真実を見いだしている演出家(脚色も彼の手による)にとっては腹立たしいばかり。ところがいざはじめてみると、女優(あろうことか、小説のヒロインと同じワンダと名乗っている)の雰囲気は一変し、19世紀末、オーストリア=ハンガリー帝国の上流階級貴婦人そのものの空気感を醸し出すではないか。しかも、セリフはすべて頭の中に入っているようなのだ。そうなってみると、薄っぺらな紋切り型にしか聞こえなかった先ほどの批判もまた、深みを帯びてくるようだ。びっくりした演出家は、もう少し続けようと前のめりになる。

演出家としてサディストじみた振る舞いをする彼だが、マゾッホの原作に惚れ込むくらいだから、もちろんマゾヒストの性向を持っている。ワンダの相手役クシェムスキーを演じてみせるうちに、彼は限りなくその主人公にシンクロしてゆくことになるのだ。つまりは、当初支配者の立場にあった演出家は、戯曲のフィクション空間を介して徐々に被支配者と化してゆく。そしてその過程もまた単純なグラデーションで描かれるのではなく、ワンダとの激しく楽しい言語(それは口から発せられる洗練されたセリフだったり、下品な口語だったり、はたまた契約書に書き付けられる条項だったりする)の丁々発止として辿られる。

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表面上の図式では、社会的存在としてSであった演出家が、ごっこ遊び(芝居)を通して自らのうちにあるMの心性を芸術的表象活動ではなく欲望そのものとして露出することを学び、さらには己の抱えていた女性性にも目覚めてゆくということになる。

ただし、いわゆる「女王」という存在を作っている/規定しているのは「奴隷」たるM者(との契約)なのであって、いくら役割としてはSであるはずの演出家がM役を演じているからといっても、その時点においては実のところ、支配者=演出家・被支配者=女優という関係は逆転しきっていない。だからこそ、そういう関係性を演じる者たちを演じることによって、関係そのものをさらに逆転させ捻り上げていくという、ほとんど数学的な愉しみすらが生成されてゆく。

そういえば、「売春婦とのセックスには興味がないんだけど、売春婦にちびるほどくすぐられてみたいという妄想に耽ることはある」と漏らした外国人の友人のために、あるSM系風俗店に問い合わせてみたことがある。すると、「お客さま、そういたしますとSコースをお選びいただき、その上でくすぐるよう女性に命令していただくというかたちになります」という明快な答えが返ってきたという出来事を思い出した。

いずれにせよ、こういったSM論議はこれまでにも聞いたことがあるし、驚くべき展開ではない。だが、階層ひとつひとつが、前述の通り言語のやりとりによる激越でもあるし抱腹絶倒でもある戦い、安全地帯のない精神分析的闘争として踏み越えられていくところがこの映画の楽しいところなのだ。ウッディ・アレンのコメディが子どもの戯れに感じられてくるような成熟ぶりを見せてくれる。「おとなのコメディ」とでも呼ぶほかない刺激がたっぷりとつまっている。まあ、こどもの戯れも、それはそれで楽しいのだけど。

そしていうまでもなくすべては、言葉のもっともストレートな意味での強靱な演出力によって達成されている。見ればわかることだが、お芝居の演出力ということではない。あくまで映画という表現媒体でしかできないことが、ここでは行われている。

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公開情報

(C)2013 R.P. PRODUCTIONS – MONOLITH FILMS
12月20日(土)、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
公式サイト: http://kegawa-venus.com/