FURY ROAD

最初の大爆発、最初に四散する車輌、最初の轟音

ジョージ・ミラー
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

文=

updated 06.21.2015

『マッドマックス』(79)でデビューした監督ジョージ・ミラー自身が、10年以上もの間作り続けていたのがこの四作目、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。最初の予告篇を目にした瞬間、はじめてシリーズ二作目、三作目に出会った頃の恐怖と興奮が蘇ったわけだが、果たして本編はその予想を遥かに超える強度でわれわれを引きずり回すのであった。

そう、たしかに恐怖があった。あたりまえのことだが、中学生くらいの年頃にとって、獣性剥き出しの人間たちが生存をかけて殺し合う終末世界の風景は、まずは怖ろしいものである。しかも寡黙な主人公は、どんな原理で行動しているのかなかなかわからない。いつなんどき誰が殺されるかわからない。しかもその殺し自体が見世物として楽しまれている世界でもある。それは、正義と悪の境界線がどこまでも曖昧な世界であった。曖昧であるが故に、「もし自分がこの世界に生きていたとしたら、どう判断しどう行動すればいいのだろう……?」という素朴な仮定が、生々しい実感をともなって迫った。

しかも思い出してみると、当時劇場で最初に見た『マッドマックス/サンダードーム』(85)をはじめ、シリーズ三部作はすべて英語オリジナル版にスペイン語字幕という状態のものを体験していた。言語的側面をほとんど理解していないのにもかかわらず映画の世界の中に取り込まれていたともいえるし、言葉を理解できないが故に、理解を超える行動原理で動く登場人物たちの世界がリアリティを持ってわれわれを呑み込んだともいえるだろう。また、長じてシリーズ二作目『マッドマックス2』(81)を見直したときには、静寂と轟音、遠さと近さ、停滞と疾走といったものを、作劇と視覚、両方の次元で巧みに現実化した、ウェスタンとしての高い完成度に撃たれたものだった。

FURY ROAD

こうしたものすべてが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にはある。当時の触感すべてが、あれから30年という時間によって摩耗したはずの人間の中に、最初の大爆発、最初に四散する車輌、最初の轟音によって、たちまち蘇ったのである。それは、涙なしには受け止めきれない感覚だった。

それはただの洗練ではないし、単純なスケールの拡大でもない。更新でもなければ停滞でもない。われわれを襲うアクションに次ぐアクションに古くささはないが、“最新のハリウッド・アクション超大作スタイル”ということでもない。すみずみにいたるまで、バカバカしいほど初期衝動に忠実な想像力が具現化され、哄笑と戦慄が波のようにわれわれに押し寄せる。

FURY ROAD

とにかく、最初から最後まで「ものすごいアクション」だけを展開する極限まで単純に見える映画でありながら、実のところ驚くべき手際と腕力で、われわれの胸に迫る豊かな物語が語られているという奇跡が、そこでは起きている。

まず第一に、マックス(トム・ハーディー)は登場するやいなや囚われの身となり、そこから脱した後も終始サポート役を務めることになる。彼をひっぱるのは、ということはこの映画全体を牽引するのは、女戦士のフュリオサ(シャーリーズ・セロン)なのである。丸坊主で墨を顔面に塗りたくったようなメイク、そして片腕義肢姿という彼女のカッコ良さは図抜けている。“美人の美人コンプレックス”という常人には理解できない病を抱えているとしか思えないセロンが、性別を超越した猛々しい怒り(フュリオサ=Furiosaは、怒り=Madを意味する)の塊そのものと化して、嬉々として身体を改変し、痛めつけられ、暴れ回り、全身を汚しながら突き進む。

一回目はただアクションに翻弄され、二回目は細部から物語が立ち上がるさまに心奪われ、三回目はようやくアクションと物語との機能ぶりに酔いしれながら見たい映画である。何度見ても打ちのめされることは間違いない。

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公開情報

©2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED
新宿ピカデリー・丸の内ピカデリー他2D/3D & IMAX3D、公開中!
配給: ワーナー・ブラザース映画
公式サイト: http://www.madmax-movie.jp/
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