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記憶と罪

ビル・コンドン『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』

文=

updated 03.17.2016

物語の現在時は1947年におかれる。93歳になるシャーロック・ホームズ(イアン・マッケラン)は、英国南東部サセックスの片田舎でミツバチたちとともにひっそりと暮らしている。戦争未亡人である家政婦のマンロー婦人(ローラ・リニー)とその息子ロジャー少年(マイロ・パーカー)が、身の回りの世話をしている。

マンロー婦人にとってみれば、気むずかしく手のかかる老人以外の何者でもないが、それはホームズが、日々薄れ行く自身の記憶との格闘を続けているためでもある。どうしても自分が引退するきっかけとなった事件の詳細を思い出せない。1919年だから、もう30年以上も昔、第一次世界大戦直後のことになる。ふとしたことがきっかけで情景があざやかに蘇ることもあるが、たちまちのうちに行き止まりに突き当たってしまう。記憶を活性化させるという山椒を求め、終戦直後の広島にまで足を伸ばしてきたばかりでもある。

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そういうわけで、解決すべき「最後の事件」はホームズ自身の脳内にあるというより、自分自身が「事件」となる。調査の依頼を引き受け、しかもとりかえしのつかない過ちを犯したことはわかっている。ほとんど罪とも呼べる過ちだ。そのために、今の孤独な自分がある。だが、それはどんな「事件」だったのか?

ワトソンはこの世を去って久しく、尋ねるべき友はいない。記憶も体力も日々失われてゆく。基本的に子どもは嫌いだが、わが家に出入りするロジャーの聡明さとはしこさは、記憶の再建にとってよい刺激になるようだ。ホームズは思い出すたびに少しずつ「最後の事件」を書きとめ、そのたびにロジャーが最初の読者となる。

ロジャーにとってホームズは憧れの「名探偵」であり、養蜂の師匠でもある。だがホームズにとってのロジャーは、「事件」解決という目的のために活用すべきアイテムにすぎないのかもしれない。その点が、「事件」の核心に通底する重要なカギとなるだろう。

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いうまでもなくホームズというキャラクターの最大の魅力は、冷酷なまでの頭脳の働きと、それと表裏一体の関係にある社会性の薄さにある。頭の悪い人間をバサリバサリと切り捨て、謎をあっというまに解決してゆく小気味良さ。すなわち、圧倒的な知力故にどんなものにも遠慮する必要がないという、いうならば“アスペルガー的ヒーロー”の持つ爽快さがわれわれを魅了してきた。

しかしどうやら、「最後の事件」でのホームズは、その知性と論理性故に過ちを犯したのかもしれないということが、徐々に明らかになる。人間には、論理で割り切れない部分がある。それはホームズ自身も抱えている薄暗いモノであり、そこから目を逸らして生きていくことは誰にもできない。だからこそその記憶は、30年間脳内の深層に埋められていたのだし、最晩年を迎えたホームズが再び同じ過ちを犯さないために、今また表層に浮上してこようとしているともいえるだろう。これは、主人公が凡人だったとしたら“ベタ以外のなにものでもないお話だが、ホームズだからこそ意味のあるなかなかに面白い転倒であると感じた。

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ところで原作者ミッチ・カリンの作品は、第二長篇『Branches』(00)しか読んだことがない。人を殺しては井戸に捨てまくる保安官ブランチズの一人称で語られるという、テキサス州西部を舞台にしたジム・トンプソン風の小説である。その風景と、この映画の物語が与える印象との間には、眩暈がするような距離が広がっているわけだが、「記憶」と「罪」、とキーワードだけ取り出してみると通底する響きがある。少なくとも、それを確認するために原作『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』を読みたいと思わせる力が、この映画にはあった。

公開情報

© Agatha A Nitecka / SLIGHT TRICK PRODUCTIONS
2016年3月18日(金) TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー
公式HP: http://gaga.ne.jp/holmes/