男は、最底辺の生活を送っている。盗んだ資材の転売をはじめ、ありとあらゆる細かな違法行為によって糊口をしのいでいるらしい。だが、その状況を抜け出そうという意志はあり、機会があればまともな職を得ようと自分を売り込みもする。その姿には、いわゆる地頭の良さと病的なひたむきさが伺えるが、常習的軽犯罪者を雇う者はいない。彼の名はルイス(ジェイク・ギレンホール)。
ある夜ルイスは、交通事故の現場に居合わせ、凄惨な現場映像が商売のタネになることを知る。さっそく盗品と引き替えにビデオ・カメラと警察無線を傍受できる無線機という道具一式を揃える。他人の痛みに共感する能力が欠けているという才能を持つルイスにとって、それは天職との出会いだった。そこから、“ナイトクローラー(いわゆる〈現場スクープ映像〉専門のパパラッチがこう呼ばれるらしい)”としての躍進がはじまる。
ルイスはもともと空っぽだった日常生活のすべてを注ぎ込み、ナイトクローラーとしての腕を磨き上げてゆく。スクープ性の高さと価格が比例関係にあるというわかりやすさの中で、ルイスは水を得た魚のように活き活きと泳ぎ回る。カメラに収めた映像が凄惨であればあるほど、独占できていればいるほど、手に入る金が多くなり、交渉におけるルイスの力は増す。ルイスはひたすらスクープを追い、獲得した力を存分に活用する。
友人はひとりもおらず、必要ともしていない。周囲にはただ、利用できる人間たちが利用価値順に格付けされて並んでいる。カメラに収まる者が誰であってもかまわない。それは露悪ではないし、冷酷さでもない。ルイスにとっては、はなから金=力以外の価値がこの世に存在しない。そのために身を粉にして働いているだけなのだ。
もちろん、どれだけ全力で取り組み万全の準備で臨もうと、うまくいく日もあればいかない日もある。ルイスはその事実が許せず、ある一線を越えてゆく。いや、彼には元もとそんな境界線が存在しない。結果を出せるか出せないか、それだけだ。
負けが込めば、越える線も多くなる。種類も変わる。程度も深化する。そして、誰も越えてはいけないとされている一線をいつのまにか越えている。なぜならいろんな意味で危険であればあるほど、スクープ性も高まるのだから。
この映画で描かれている状況は、指摘するまでもなく古典的とも典型的ともいえるもので、なにもナイトクローラー稼業だけに関わるお話ではない。金と力への欲望という原理に誠実な者の辿る、普遍的な道程が描かれているにすぎない。資本主義というシステムの機能不全ではなく、システムの持つ本質が、ナイトクローラーという稼業の中に剥き出しに結実している。
だからルイスは、人格障害を抱えていたからナイトクローラーとして成功していったのではない。事態は逆で、金と力のシステムに身を委ねれば、どんな人間でも同じ道を辿ることになる。当然ながら、それをどこまで突き進めるのかは、その人間の“能力”によるわけで、彼の場合はそのシステムと過度に真摯に向き合っただけなのだ。
ジェイク・ギレンホールが、ここで(いささか嬉々とし過ぎているとはいえ)造形することに成功しているのは、異常者の異常な存在感ではない。むしろ、異常者に見えるがこの男もただ必死でやっているに過ぎないと観客に理解させ、あまつさえ共感すらさせるという離れ業である。
なにしろこの映画を見ていても、いっこうにルイスが憎くならない。たしかにヤツの立場ならオレもこうするだろうとしか感じないし、手に汗握ってルイスを応援したい気持ちまで生まれてくる。この男ほど真面目で一生懸命な人間がいるだろうか。巷にあふれる成功法則を語る本の大部分によって説かれていることを、ただ実行に移しているだけなのではないか。それが、ギレンホールという俳優によって持ち込まれた、この作品の力なのだ。
公開情報
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8月22日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー
配給: ギャガ